川の上に霧が出ていた。
万灯流しまであと六日。灯京の川面には例年この時期になると薄い霧が立ち、水底に沈んだ光がにじんで揺れる。夜依は事務所の窓から川を見下ろしながら、百合江の言葉をまだ反芻していた。
*来週の万灯流しに、何かが起きます。*
あの老婦人が「何か」と言うとき、それは必ず取り返しのつかないことを意味している。夜依はそれを直感的に知っていた。三年間同じ建物に住み、棋を指し、時折互いの沈黙を共有してきた時間が、そう教えていた。
「夜依さん、お茶、もう冷めてますよ」
千重が盆を持ってやってくる。白い湯気の立たない緑茶を、彼女は少し申し訳なさそうに机に置いた。陽の傾いた午後の光が、彼女の輪郭を橙色に縁取っている。記憶を持たない少女は、今日も昨日と変わらない顔をしていた。変わらない、という言葉がひどく奇妙に思えるのは、夜依だけだろうか。変わらないためには、変わる前の何かが必要なはずだから。
「壱は」
「さっきから例の端末と格闘してます。何かデータが欠けてるって言って、ずっとブツブツ言ってる」
千重は少し声を落として付け加えた。「あの人、怒ってるときと考えてるとき、同じ顔するんですよね。怖い」
夜依は口元だけで笑った。
インターホンが鳴ったのは、そのときだった。
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朱鷺野 迅(ときの・じん)は、噂通り異様な男だった。
年齢は五十代の半ばほどだろうが、銀糸を縫い込んだような白髪を無造作に束ね、塗料とも煤ともつかない染みのついた作業着のまま事務所に入ってきた。顔には深い皺と、それ以上に深い何かがあった。灯京芸術界の頂点と呼ばれる男の目には、感動も傲慢もなく、ただ底知れない疲労だけがあった。
「瀬戸弁護士に会いに来た。糸村百合江さんの紹介だ」
百合江の名前を出したとき、夜依の背筋がわずかに伸びた。あの老婦人がこの男を寄越した。万灯流しの六日前に。
「お座りください」
朱鷺野は椅子を引きもせず、しばらく立ったまま事務所の内部を眺めた。棚の上の法令書、壁に貼られた事件のメモ書き、そして千重の顔を。千重を見たとき、彼の表情に何かが走ったが、夜依はそれを読み切れなかった。
「盗まれた」
座ってようやく、彼は口を開いた。
「私の作品が。盗まれた」
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朱鷺野 迅の代表作「記憶の彫刻・第七番」は、灯京芸術史において特異な位置を占める作品だった。
記憶ホログラム技術を芸術に転用した最初の旗手として、彼は実在の人間の記憶断片を素材に、見る者の神経に直接触れる立体的な映像造形物を創った。その「第七番」は、ある老人が戦前に目にした川の記憶——今は存在しない、まだ汚染される前の自然の川——を基にしており、灯京市立美術館の最も奥まった部屋に、常設展示されていた。
「二週間前、美術館から連絡が来た。作品の定期メンテナンスをしたいから記録データを貸してほしいと。私は断った。あれは生のデータに手を入れることを良しとしない作品だから」
「それで」
「翌日、美術館に行った。自分の目で確かめるために。そして気づいた。別物が置いてある」
夜依は手を組んだ。「別物、というのは」
朱鷺野は懐から小型の再生端末を取り出し、テーブルの上に置いた。二つのホログラムが立ち上がる。左が本物の「第七番」、右が現在美術館に展示されている「第七番」だ。
千重が息を飲んだ。
夜依も、言葉を失った。
右の映像が、美しかった。
川の記憶が、そこにあった。水の透明さ、風の温度、光の角度、老人の指先の震え——すべてが左の作品より鮮明で、深く、完璧だった。不純物のない感情が空間を満たし、見る者の胸に直接沁み込んでくるような圧倒的な密度があった。
左の本物は、それに比べると、かすれていた。揺らいでいた。記憶のノイズが残り、人間くさい歪みがあった。
「美術館の学芸員は誰も気づいていない」と朱鷺野は言った。声に怒りはなかった。怒りを超えた何かがあった。「鑑定士も呼んだ。三人全員が、右が本物だと言った。記憶素材の構造解析も行った。その結果も、右を本物と判定した」
夜依は右のホログラムをじっと見つめた。
「つまり、偽物の方が本物より『本物らしい』」
「そういうことだ」
沈黙が落ちた。
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壱を呼んだのは夜依の判断だった。
技術的な話が必要だと思ったからではない。この案件において、自分の感覚が信じられるかどうかを確かめたかったからだ。他人の記憶を読み続けて感情が磨耗した男が、どちらを「本物」と感じるか。
壱は両方のホログラムを順番に、しばらく眺めた。
「どっちが好きですか、と聞かれたら、右」
「そうじゃなくて」
「わかってます」壱は右を指差した。「こっちは、記憶じゃない」
朱鷺野の目が光った。「根拠は」
「本物の記憶には、見ていない部分がある。人間は全部を覚えていない。川の記憶なら、例えば——自分の足元、川の反対岸の細部、その日の昼食の匂い——そういうものが欠けていたり、ぼやけていたりする。記憶は空白込みで記憶だ。右の作品には空白がない。全部が同じ解像度で存在している。これは記憶素材を使った造形物じゃない。記憶の形をした、計算された幻だ」
夜依は静かに息を吐いた。知っていた。壱ならそこに気づくと。
「あなたは誰かに恨みを持たれる心当たりがありますか」と夜依は朱鷺野に聞いた。
老芸術家はしばらく黙った。
「芸術の世界に生きた五十年で、敵のない人間などいない。だが、これをするほどの技術を持ち、これをするほどの動機を持つ者となると」彼は指先で自分の膝を叩いた。「一人だけ、思い当たる男がいる」
「名前を」
「神楽野 鏡介(かぐらの・きょうすけ)。かつて私の弟子だった男だ。十五年前に破門した。理由は——彼が記憶を偽造したからだ。芸術のために」
その名前を夜依は聞いたことがなかった。だが、千重が小さく「あ」と声を漏らしたのが聞こえた。
振り返ると、千重は自分の口を手で押さえていた。驚いた顔で、しかし同時に、何かを必死に思い出そうとするような、苦しい顔で。
「千重」
「ごめんなさい、何でもないです。たぶん、何でもない」
たぶん。その言葉は「知っているが思い出せない」という意味に聞こえた。
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朱鷺野が帰ったあと、夜依は窓際に立って川を見た。霧がまだそこにあった。
真実が偽物に見える。
偽物の方が完璧で、美しく、誰もが信じる。本物はかすれていて、揺らいでいて、空白だらけだ。
これは芸術作品の話だろうか。夜依は思った。自分自身の話ではないか。記憶操作で冤罪を負わされたあの夜、法廷に提出された「完璧な記憶」は、夜依が絶対に犯していない罪を、完璧に描いていた。
完璧すぎて、誰も疑わなかった。
壱が隣に来た。
「この事件、蒼川と繋がると思いますか」
夜依は即答しなかった。しばらくの間、川面を見た。
「神楽野鏡介という男について調べてほしい。破門された記憶芸術家。十五年前から今まで、何をしていたか」
「わかりました」壱は静かに頷いた。「それと」
「何」
「千重さん、さっきの名前に反応してましたよね。彼女の中にある何かが、あの名前を知っている」
夜依は答えなかった。知っていた。だから怖かった。千重の封じられた記憶が、この事件を通じて少しずつ動き出すかもしれない。それが夜依には、万灯流しの予兆のように思えた。
川の霧が、灯の光を飲み込んでいた。
真実はいつも、こんなふうに霞んでいる。霞んでいるから、本物なのだ。
なのに、どうして人は完璧な嘘の方を手に取ってしまうのだろう。
夜依は冷めたお茶に、ようやく口をつけた。