灯京の夜は、いつも水の匂いがする。
川から立ち昇る湿気が高層ビルの隙間を縫い、灯篭型のデータ端末が静かに明滅しながら宙を漂う。その光は橙色で、まるで誰かが失った記憶を灯籠に封じ込めたように、川面にゆらりと映る。
瀬戸夜依の事務所は、その川沿いの雑居ビルの四階にある。深夜二時を過ぎても、三人はまだそこにいた。
記憶回収プログラムの解析コードが、壁面のホログラムパネルに青白く浮かんでいる。数列と記号が螺旋状に絡み合い、まるで生きているかのように波打っていた。稲森壱は椅子を引き寄せて端末に向かい、指先だけで空中を叩いていた。夜依はその斜め後ろに立ち、コードの流れを目で追っていた。
双葉千重だけが、少し離れたソファに座って膝を抱えていた。
「ここの分岐点、おかしいな」
壱が呟いた。独り言のようでいて、夜依に向けている。
「どこ」
「感情データの圧縮アルゴリズム。通常の封印なら、記憶ごと平坦に畳む。でもこれは——」
壱の指が止まった。
「感情だけを、先に切り離してある」
夜依は眉を寄せた。コードの一点を見つめながら、何かを口にしかけて、やめた。思考の歯車が回り始める音を、彼女自身がどこかで聞いていた。
そのとき、音がした。
かすかな、でも確かな音だった。息を吸い込むような、それでいて詰まったような——。
「千重」
夜依が振り返ると、千重は膝を抱えたまま、肩を震わせていた。
泣いていた。
理由のわからない泣き方、というのがある。嗚咽でもなく、涙でもなく、ただ体の奥から何かが漏れてくるような。千重の泣き方はそれだった。声を殺しているわけでもなく、あふれ出るのを止めようとしているわけでもなく、ただ——泣いている。
「どうした」
夜依が歩み寄ろうとした、その前に、壱が立ち上がっていた。
夜依は足を止めた。
壱はゆっくりと千重に近づき、しゃがみ込んで視線を合わせようとした。千重は顔を上げなかった。涙が膝の上に落ちて、布地に染みを作った。
「千重」
壱が、もう一度名前を呼んだ。夜依はその声の質感に気づいた。いつもの、記録するときの声と違う。感情の温度が、少し、ある。
「わかんない」
千重が言った。しゃくり上げながら、それでも言葉を絞り出した。
「なんで泣いてるのか、わかんないの。急に、胸が、すごく——痛くなって」
「どんなふうに」
「誰かのこと、思い出しそうで……でも、思い出せない。顔も声も名前も、何もないのに、その人のことが恋しくて——」
千重は言葉を切った。泣くことに集中した。
壱は少し間を置いて、右手を千重の肩に乗せた。
それだけのことだった。技術的な手順でも、感情の計算でもなく、ただ、そうするのが自然なことのように。夜依はその動作を見ていて、胸の中に針で刺したような痛みが走るのを感じた。痛みに似た、別の何かかもしれなかった。
「誰かを愛してた気がする」
千重が言った。「でも、誰かわからない」
それは問いかけではなかった。告白でもなかった。ただ事実として、千重の口から出てきた言葉だった。記憶のない人間が、記憶の痛みを感じるという矛盾を、千重はそのまま抱えていた。
夜依は壁に寄りかかった。腕を組んで、千重と壱を見ながら、考えた。
感情だけを切り離してある——壱の言葉が、耳の奥で繰り返した。
通常の記憶封印は、記憶と感情を同時に圧縮する。セットだ。人間の記憶は論理ではなく感情によって定着するから、切り離せばどちらも機能しない。それなのに、千重の中には感情だけが残っている。残されている。
ずっと、夜依は考えていた。千重の記憶が消されたのは「隠蔽のため」だと。誰かを守るための消去か、千重自身を都合よく使うための白紙化か。どちらも、罰の形をしていた。
でも、今夜、別の仮説が生まれた。
もし、千重の記憶を消したのが——千重を罰するためではなく、守るためだったなら。
夜依は目を閉じた。
灯京創設期の記録に、一件だけ特殊な封印プロトコルの実験報告書がある。壱が開発した、感情の核だけを残して記憶の「輪郭」を消す手法。実験体C-12。夜依はその報告書の存在を、糸村百合江から聞いた。詳細は見ていない。見る必要がないと思っていた。
今夜、壱がコードを見て気づいた。
そして千重が泣いた。
繋がっている、と夜依は思った。ピースではなく、熱として感じた。
「記憶を消されたんじゃないかもしれない」
夜依は目を開けて、言った。
千重と壱が振り返った。
「守るように、封印された可能性がある。千重が——千重自身が、何かを知っていた。その何かが、誰かにとって危険だった。だから記憶を根こそぎ奪うんじゃなくて、千重が傷つかないよう、触れられないように——包んで、仕舞った」
「誰が」
壱が静かに問う。その声には、さっきまでとは異なる緊張があった。
「それがわかれば、千重の記憶の鍵がわかる」
夜依は千重を見た。千重の涙はもう止まっていたが、目は赤く、頬に光の筋が残っていた。
「千重。一つだけ聞いていい」
「うん」
「その、誰かのことを思い出しそうになったのは、さっき私たちが解析を始めてから——コードを見てから?」
千重は少し考えた。それから、こくりと頷いた。
「パネルに出てた光が……なんか、見たことある気がして。でも見たことないはずで。それから急に」
夜依と壱の視線が交差した。
壱の表情は、夜依が初めて見るものだった。困惑でも分析でもなく、何かもっと個人的な、内側から刺されたような表情。
夜依は問いを飲み込んだ。今夜は、まだその扉を開けるべきではない。
「休め、千重」
夜依は言った。「今日はここまで。無理に掘り返さなくていい」
「夜依さん」
「ん」
「私が知ってたことって、なんだと思う」
千重の声は静かだった。泣いた後の、乾いた静けさだった。
夜依はすぐには答えなかった。川の方角を向いて、窓の外、橙色の灯篭がゆったりと川面に近づいては離れるのを見た。
「灯京の、いちばん深いところに関係することだと、私は思う」
千重は何も言わなかった。
壱も何も言わなかった。
三人は、それぞれ黙って同じ夜を呼吸していた。
夜依は心の中で、もう一つの問いを転がした。千重の記憶を封印した者は、千重を愛していたのではないか。その愛が、千重の感情だけをそっと残したのではないか。
だとすれば——その者は今もどこかで、千重が泣くのを知っているかもしれない。
川の光が揺れた。まるで、誰かの手が水面に触れたように。