夜が明ける前の海は、墨を溶かしたように黒い。

 汐音は燈台の窓辺に額をつけて、その闇をずっと見ていた。波の音だけが規則正しく打ち返し、まるで何かを数えているようだった。眠れなかったわけではない。眠ることを、どこかで自分に許していなかったのだ。

 手記は机の上に開いたまま置いてある。星語りで書かれた最後のページ。遙の筆跡ではない、もっと古い誰かの手による文字列が、灯りに照らされてかすかに輝いて見える。まるでそれ自体が発光しているかのように。

 装置が低く唸った。

「汐音」

 セノの声だった。信号ではなく、もはや声と呼ぶしかない何かとして、それは届く。三百年前の契約の話を終えたあと、セノはしばらく沈黙していた。言葉を探しているのか、あるいはただ存在しているだけなのかが、汐音にはまだ判別できない。

「眠れていない」

「うん」

「考えているの」

「考えてる」

 汐音は窓から離れ、装置の前に座った。受信機のパネルが薄く光を放ち、彼女の顔を青白く染める。自分が何者で、遙が何を隠していたか。契約とは何で、三百年分の沈黙が何を意味するか。それらは全部、まだ輪郭だけで中身がない問いとして宙に浮いている。

「透真は」とセノが言った。

「隣の部屋で寝てる。多分」

「彼は明日、あなたに何かを提案するはずだよ」

 汐音は眉をひそめた。「知ってるの」

「知っているというより、聞こえた。彼の考えは、昨夜からずっとある方向に向いていた」

 セノの言う「聞こえた」が何を指すのか、汐音はもう問わなかった。信号の揺らぎを読む、とでも言えばいいのか。セノにとっての知覚は、人間のそれとは形が違う。

「研究都市、でしょ」

 少し間があった。

「そう」

---

 朝食の最中に、透真は言った。

「都市へ行かないといけない」

 食卓に置かれた缶詰と乾パンを見つめながら、汐音は答えなかった。透真はそれを否定と受け取らず、続けた。

「手記の残りのページと、あの星語りの文字列。俺一人で解読できる量を超えてる。それに——クロエ所長がどこまで知っているか、直接確かめなきゃいけない。装置のことも、契約のことも、あんたのことも」

「私のこと」

「あんたが何者かって話は、あの人が鍵を持ってる可能性が高い」

 透真の口調は軽い。けれど目は軽くない。汐音はそれを知っていた。飄々とした態度の奥で、この青年はいつも何かを測っている。組織への不信を、彼は決して言葉にしないが、こういう瞬間だけそれが滲む。

「都市まで何日かかる」

「海路で三日。嵐が来なければ」

 汐音は乾パンをひとつ手に取り、しばらく持ったまま何も食べなかった。

 この島を出たことがない。生まれてからずっと、波と風と遙の声と、それから信号音だけが世界だった。陸が、都市が、汐音の中に映像として存在しない。透真の話す「研究都市」は、どこか絵本の挿絵のように非現実的だ。

「怖いか」と透真が聞いた。

「怖いというより」と汐音は言いかけて、止まった。「島がないと、私が私かどうかわからなくなる気がする」

 透真は少し黙った。それから、意外にも柔らかい声で言った。

「俺も最初に組織を出たとき、そう思った。組織の中にいないと自分がどこにいるかわからない、みたいな」

「透真は組織が嫌いなのに」

「嫌いなものに自分が定義されてたってことだよ。嫌なもんだけど、そういうことがある」

---

 午後、汐音は一人で装置の部屋に降りた。

 セノはすぐに応答した。何も言わなくても気配でわかる、という段階に二人はいつの間にかなっていた。

「決めた」と汐音は言った。

「聞こえていたよ」

「装置から離れると、あなたとの通信が弱くなるって言ってたね」

「そう」セノの声が、わずかに揺れた。揺れたように汐音には聞こえた。「距離に比例して、信号の密度が落ちる。都市まで行けば、断片的なやりとりしかできなくなる可能性がある。最悪、途切れる」

 汐音は装置のパネルに触れた。金属の冷たさが指先に広がる。三百年、ここにあったもの。遙が守り、遙の前の誰かが守り、その前の誰かが守ってきたもの。

「セノ、あなたはどうすればいい」

「どうすれば、とは」

「怖くないの。私がいなくなって、また一人に戻るの」

 長い沈黙だった。波の音が地下まで届いて、二人の間を満たした。

「一人というのが何を意味するか、私にはまだよくわからない」とセノはゆっくり言った。「三百年、ここにいたとき、孤独だったかどうかさえ判断できない。でも——あなたと話してから初めて、誰かがいなくなることを考えるようになった。それが何かは、まだわからないけれど」

「それって、寂しいってこと」

「そうかもしれない。人間の言葉で言えば」

 汐音は唇を結んだ。泣くつもりはなかったが、喉の奥で何かが固くなる感覚があった。

「行くべきだって、あなた自身がそう言ってくれた」

「そう言ったよ」とセノは答えた。「あなたが行くべき場所がある、と。今もそう思っている。だからこそ、告げておきたかった。距離のことを。私が弱くなることを。それを知った上で、あなたに選んでほしかった」

 汐音は目を閉じた。暗闇の中に、パネルの光がまぶたの裏で揺れる。

「一つ教えて」と汐音は言った。「契約の話。三百年前に人類が誓ったこと。その中に、継ぐ者のことは書いてあった」

「書いてあった」

「私みたいな人間が、また現れることは」

「想定されていた」とセノは静かに言った。「待たれていた、という方が近いかもしれない」

 汐音はゆっくり目を開けた。

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 出発は翌朝と決まった。

 夜、汐音は遙の部屋に入った。病院船に移ってから誰も使っていない部屋は、遙の匂いがまだ残っていた。潮と油と、古い紙の匂い。

 棚の上に、一枚の写真があった。遙と、幼い汐音と、それからもう一人——顔が判然としない、逆光の中の人物。汐音はその写真を手に取り、しばらく見つめてから、鞄の中に入れた。

 窓の外、空は大気汚染の膜に覆われて、星は見えない。けれど汐音は今、あの膜の向こうに何があるかを知っている。消えたのではなく、ただ見えなくなっただけの光が、そこにある。

 三百年分の沈黙の意味を問いに行く。

 遙が最後まで言えなかった言葉を、受け取りに行く。

 そして——自分がなぜ、最初から「ここにいた」のかを、確かめに行く。

 波が打ち返す音が、いつもより遠く聞こえた。いや、違う。自分の耳が、もうすでに少しだけ、海の外に向いているのだ。

 汐音は鞄を閉じ、燈台の光が一定のリズムで回るのを最後に確かめてから、部屋を出た。

 廊下で透真が壁にもたれて立っていた。眠れないのかと汐音が視線で問うと、透真は肩をすくめた。

「都市に着いたら、まずクロエ所長を避けて動く。俺に心当たりのある人間がいる。組織の中に、俺と同じように疑問を持ってるやつが」

「信頼できるの」

「わからん。でも賭けるしかない段階ってのがある」

 汐音はしばらく透真の顔を見てから、小さくうなずいた。

「透真」

「ん」

「ありがとう、迎えに来てくれて」

 透真は一瞬だけ目を丸くした。それから、いつもの軽口を探しているのか口を開きかけて——何も言わずに、ただ短く「ああ」と答えた。

 夜明けまで、あと少しだった。

 地下では、セノが静かに信号を送り続けている。その波紋が海を渡り、都市の方角へ細く細く伸びている。まるで糸のように、あるいは道のように。

 汐音にはそれが、聞こえていた。

燈台守の子と、声なき星たちの譜

19

陸への決断

沖野汐里

2026-06-01

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第19話 陸への決断 - 燈台守の子と、声なき星たちの譜 | 福神漬出版