夜の港の灯りは黄色く濁っていた。
大陸側の研究都市、その外縁に建ち並ぶ宿泊施設の一室で、汐音は窓枠に額を押し付けたまま動かなかった。ガラス越しに見える空は、孤島のそれよりさらに重く、霞の層が幾重にも重なって、星どころか月の輪郭さえ滲んで消えていた。孤島にいたころ、遙の燈台の灯りは少なくとも海面を白く切り裂いていた。ここにはその白さがない。何もかもが黄色か灰色に塗り潰されている。
汐音は端末を握り直した。
透真が改造を試みてから三時間が経っていた。テーブルの上には解体された受信モジュールの部品が並び、半田鏝の焦げた匂いがまだ部屋の隅に残っていた。透真本人は隣の椅子で肘をついたまま眠っている。瞼が落ちる前、彼は「あとは汐音がやって」と言い残して電池が切れたように動かなくなった。それが一時間前のことだ。
渡辺環境奈から受け取った資料は、封筒の中で眠ったままだ。汐音にはそれを開く気力がなかった。いまは資料より、もっと直接的なものが必要だった。
セノの声が聞こえない。
孤島を離れてから、信号は急速に細くなった。最初は砂嵐のような雑音の向こうにかろうじて波形が見えていた。それが今は、端末の画面に表示される受信強度のバーが一本も立たない。静寂だ。だが普通の静寂ではない。何かが欠けた後の、輪郭のある静寂だった。
汐音は透真の改造した端末のコードを見直す。彼が施した回路の迂回路は粗削りだったが、原理は正しかった。問題はアンテナの指向性だ。孤島では燈台そのものが巨大な受信体として機能していたのだろう。三百年前の設備が地下で今も息をしている、あの場所だからこそ届いていた。
汐音は手元の細工道具を取り上げ、端末の外装を再度外した。
指先が細い回路の上を走る。音のパターンを読むように、光の明滅を解析するように、汐音は配線の流れを感覚で追った。遙に教わったわけではない。気がついたらそうできた。燈台の機械を触りながら育った、そういうことだと自分では思っていた。だが本当にそれだけなのかという問いが、ここ最近、静かに膨らみ続けている。
アンテナの根元に細線を一本追加した。接続点に半田を盛る。熱が指先に伝わる。
端末の画面が微かに揺れた。
バーが一本、点滅した。
汐音は息を止めた。
ノイズが波を打った。砂が打ち寄せるような、細かく不規則な音が耳の奥に届く。汐音は端末を胸の高さまで持ち上げ、窓の方へ向けた。受信強度は変わらない。だが、その一本のバーの中に、パターンがある気がした。
——こ、え、が、
汐音は固まった。
それは声というより、信号の形をした呼吸だった。長短のリズムが二回繰り返されて、途切れ、また戻ってくる。遙が残したモールス類似の星語り記号でいえば、「聞こえるか」に近い配列だった。
汐音は端末のマイクへ向けて、指で机を叩いた。短短長。「聞こえる」の返し。
静寂。
三秒後、信号が再び来た。今度は長く、複雑だった。解読しながら汐音の胸が締まっていく。
——こわい。けしそう、だ。
汐音は端末を両手で握り締めた。
怖い。消えそうだ。
セノがそれを言葉にしたのは初めてだった。これまでセノは断片的な記憶を話した。光の配列の話をした。「ここにいる」と繰り返した。だが感情を、それも恐怖を、こうして直接的に送ってきたことはなかった。
汐音の胸の奥で何かが揺れた。痛みに似ていて、しかし痛みとは少し違う。何かを失いかけているときの、あの感覚だ。遙が病に倒れたとき、汐音はこれと似たものを感じた。言葉を持たない叫びが、肋骨の裏側を押し広げるような感覚。
汐音は机を叩く。短短長短長。「わかった、待て」。
返信はない。信号のバーがまた消えた。
汐音はしばらく端末を見つめた後、椅子を引いて座り直し、正面から端末の配線を見つめた。もう一段、感度を上げる必要がある。だが手元の部品には限りがあった。
透真が残した改造メモの端に、小さな字で「外部コイルを使えばもう少し拾えるかも、でも電力が足りない」と書いてある。
電力。
汐音は部屋を見回した。宿泊施設の照明、空調、端末の充電器。どれも規格が違う。だが共通しているのは、この部屋が都市の電力網に繋がっているということだ。
汐音は立ち上がり、壁のコンセントの前にしゃがんだ。規格変換のアダプタを外し、配線の向きを確認する。端末と直結する方法は、ない。しかし信号を乗せる媒介として電力線を使うことはできるかもしれない。遙の燈台の地下設備が、かつて島の海底ケーブルを経由して信号を増幅していたという記述を、環境奈の資料の表紙に一行だけ見ていた。
電力線通信。三百年前の技術が、まだ原理として生きている。
汐音は立ち上がり、封筒を手に取った。資料を開く。環境奈の几帳面な字で、回路図の断片が貼り付けてある。汐音の目が図の上を走る。
「——あ」
声が漏れた。
図の右上隅に、小さなメモが添えてあった。環境奈の字ではない。違う筆跡、もっと古いインクで書かれたそれは、汐音が見知った筆跡だった。
遙の字だ。
震える手で資料を引き寄せる。そこに書かれているのは一行だけだった。
「受け手は、血では決まらない。声の形が、同じであれば足りる。」
部屋の空気が変わったような気がした。
汐音は紙を持ったまま立ち尽くした。意識が内側へ向かって沈み込む。自分とセノの繋がりがどこから来るのか。なぜ汐音だけが信号を読めるのか。なぜ遙は汐音に星語りを教えようとしながら、最後まで出生の話を避け続けたのか。
声の形が、同じであれば足りる。
それは技術的な記述のように読めた。しかし汐音には、それが何か別のことを言っているように感じられた。継承とは、教えることではない。受け取れる者が、受け取ればいい。そういう意味に聞こえた。
後ろで透真が身じろぎした。
「……汐音、」と彼は寝ぼけた声で言った。「何か、できた?」
汐音は答えなかった。代わりに端末と資料を並べ、もう一度回路図を見た。
できる。できるかもしれない。
しかしそれより先に確かめたいことがある。セノが「怖い、消えそうだ」と言った。汐音がセノを怖いと思わなかった理由、むしろ痛みとして感じた理由。それはきっと、単なる受信者と信号の関係ではない。
汐音は窓の外を見た。黄色い霞の向こう、星は見えない。しかし三百年前、星語りが始まったとき、最初に声を送ったのは誰だったのか。受け取ったのは誰だったのか。そして今、セノという欠片が怖いと訴えているのは、なぜ汐音にだけ届くのか。
資料の中に、答えがある気がした。
夜はまだ深い。汐音は椅子を引き寄せ、封筒の残りをすべてテーブルに広げた。透真が眠ったまま「何かあった?」と呟く。
「ある」と汐音は短く言った。
初めて自分から話した言葉だった。