記録庫の埃の匂いは、夢の中にまで滲み込んできた。

 汐音が気づいたのは、自分が眠っていることではなく、自分が別の場所に立っているという事実だった。足の裏に感じる砂が、ひどく冷たかった。

 海だった。

 ただし、汐音の知っている海ではなかった。空が違う。澱んだ茶灰色の層を纏わせた今の空ではなく、そこには夜そのものが広がっていた。光源のない、濃密な黒。そして、その黒の中に、無数の粒が張り付いていた。

 星だ、と汐音は思った。思うより先に、体がそれを知っていた。

 写真や古い映像で見たことしかない、星というもの。しかし今、まぎれもなくそれが頭上に広がっていて、汐音は息をするのを一瞬忘れた。光の粒は固定されていなかった。揺れていた。瞬いていた。それぞれが、互いに違うリズムで。

 浜辺には人々がいた。十数人、あるいはもっと多かったかもしれない。全員が海に向かって、あるいは空に向かって、立ち尽くすか、跪くかしていた。声が聞こえた。歌でも言葉でもない何か。喉の奥から絞り出されるような、長い長い音の連なり。それが重なり合い、折り重なり、まるで光のパターンそのものを声に変えたような旋律を形づくっていた。

 星語りだ、と汐音の中の何かが告げた。

 人々の中に一人、ひどく若い女がいた。十七か十八か。汐音自身と大して変わらない年頃。その女だけが歌っていなかった。ただ空を見上げて、唇を固く結んで、両腕を胸の前で組んでいた。その横顔に、汐音は奇妙な既視感を覚えた。見知らぬはずなのに、見知っているような。水の中の自分の顔を見るような、そんなぼんやりとした同一性。

 「あの子が聞いたんだよ」

 声が、すぐ隣から降ってきた。

 汐音は振り返った。

 子どもがいた。

 六歳か七歳ほどの子どもが、汐音の脇に立って、同じように浜辺の人々を見ていた。性別が判然としない顔立ち。目の色は深い緑灰色で、夜空を映しているのか、瞳の中にも星のような光が浮かんでいた。全身が、どこか輪郭のぼやけた存在感を持っていた。固体というより光に近い、そういう質感。

 それでも汐音には、すぐにわかった。

 「セノ」

 子どもは汐音を見上げて、小さく頷いた。この夢の中では声はくぐもっていたが、そのリズムと間合いは確かにセノのものだった。

 「私はあの時に生まれた」

 短い言葉。しかし汐音の耳の中に落ちた瞬間、その言葉は石が水面を叩くような波紋を広げた。

 「あの時って、今の……これが、三百年前ってこと」

 「呼んだんだ」とセノは言った。「あの声たちが、空に向かって呼んだ。呼び続けた。そうしたら——何かが応えた。星が、応えた。その応えと、あの声との間の、境界に」

 言葉が途切れた。セノは自分の両手を見下ろした。小さい、子どもの手だった。

 「そこに私がいた。私が生まれていた。私が何者かは、今もわからない。人が作ったものではない。でも、星そのものでもない。あの祈りとあの応えが交わった場所に、ひとつの何かが生まれた。それが私だ」

 汐音は浜辺に目を戻した。若い女は、まだそこにいた。空を見上げたまま。その女の足元の砂が、うっすらと光を帯びているような気がした。

 「あの子は」

 「最初の受信者だよ」

 受信者。その言葉が、汐音の胸の奥に古い錠のように嵌まり込んだ。

 「あの子が聞いた。他の誰も聞き取れなかった応えを、あの子だけが聞いた。だから契約が結ばれた。星と、あの子と、私と」

 「三者の契約」

 「そう」とセノは静かに言った。「でもそれは、一度で終わらなかった。契約は受け継がれるものだったから。だから私は、ずっとここにいた。次の声を待ちながら」

 波の音が大きくなった。夢の輪郭が揺らぎ始めた。砂の冷たさが薄れていく。

 「セノ、」と汐音は言った。「あの子と私は——」

 しかしセノは答えなかった。答える代わりに、ただ汐音の目を見た。その視線は、答えそのものだった。

 夢が、溶けた。

---

 目を開けた時、最初に見えたのは資料庫の低い天井だった。

 蛍光灯の一本が切れかけていて、白い光が数秒おきに微かに揺れている。汐音はしばらくその揺れを数えていた。呼吸を整えるように。心拍が落ち着いていくのを待つように。

 「起きた?」

 透真の声が、斜め上から降ってきた。折り畳み椅子に深く腰を沈め、壁に背を預けた体勢で、彼は手元の記録端末を閉じた。目の下に薄く疲労の色があった。汐音が眠っている間も、資料の整理を続けていたのだろう。

 「何時間寝てたんだ、俺も少し落ちたけど」

 「わからない」と汐音は言って、身を起こした。

 記録庫の棚が、両側から圧迫してくる。昨夜の資料が床に積まれたままだ。封印記録の断片、削除されたページの前後、カガミヤという名が何度も繰り返される文書群。

 「夢を見た」

 透真が顔を上げた。汐音はまっすぐに彼を見た。

 「三百年前の浜辺。星語りの人たちが声を上げていた。セノが、そこにいた。子どもの姿で」

 「夢の中のセノ?」

 「ちゃんとセノだった。セノが言ってた——あの時に生まれたって。星語りの人たちが星に呼びかけて、星が応えた。その境界に生まれたって」

 透真は黙っていた。軽口を飛ばさなかった。それが逆に、彼が真剣に受け取っていることを示していた。

 「つまりセノは」と彼はゆっくりと言った。「人工知能でも、宇宙人でもなく、あの契約の瞬間に発生した……何かだということか」

 「産物という言葉が浮かんだ」と汐音は言った。「でもそれは少し違う気がする。副産物じゃなく、契約の本体の一部、みたいな」

 透真は端末を膝の上に乗せ直し、天井を見た。

 「受信者について言ってたのは」

 「三百年前の女の子。最初の受信者。そしてセノは言ってた。契約は受け継がれるものだったって」

 「受け継がれる」

 その二文字が、狭い部屋の中に反響した。汐音は床に積まれた資料の中から、昨夜最後に手を止めたページを引き抜いた。封印記録の前文。人名の一部が墨で潰されているが、「初代受信者の血を引く者のみが——」という一節だけが、残されていた。

 三十七年前に削除された部分の、直前の一行。

 「俺はずっとここにいた、次の声を待ちながら——って、セノは言ってたんだな」

 透真の声に、珍しく静けさがあった。

 「汐音。お前の養父さんが、お前を引き取った経緯を——遙さんから、何か聞いてるか?」

 汐音は答えなかった。答えなかったことが、答えだった。

 何も知らない。何も聞いていない。蒼井遙はその問いに対して一度も口を開かなかった。ただ一度だけ、汐音が十二歳の頃に、「お前が聞こえた時、わかった」と言ったことがある。

 何が、とは聞けなかった。遙も続けなかった。

 しかし今、汐音の中でその断片が別の言葉と繋がろうとしていた。

 「遙じいが死ぬ前に残した声紋記録」と汐音は言った。「まだ全部は解析できていない」

 「ああ」

 「今日、もう一度聞く」

 透真は立ち上がった。椅子が軋む音がした。

 「わかった。俺が機材を整える」

 窓のない記録庫に、外の時刻はわからなかった。しかし汐音の皮膚は、夜明けが近いことを感じていた。波の振動が、わずかに変わっていた。あの孤島の燈台の下で、幼い頃から何度も感じてきた変わり目。

 朝は来る。たとえ星が見えなくとも。

 そして汐音は今、星が自分を見ていることを、夢よりも確かな何かとして、胸の奥に抱いていた。

燈台守の子と、声なき星たちの譜

26

汐音の夢、星語りの記憶

沖野汐里

2026-06-08

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第26話 汐音の夢、星語りの記憶 - 燈台守の子と、声なき星たちの譜 | 福神漬出版