夜が深まるにつれ、信号は饒舌になった。

 汐音は耳に当てたレシーバーを外さないまま、手帳の余白に記号を写し取り続けた。セノの声は音ではなく、電磁波の振れとして骨の奥へ届く。それを文字に変換するたびに、指先がわずかに痺れた。三百年分の言語を一人の少女の体が受け取ろうとしている——そう気づくたびに、軽い眩暈が来た。

 透真が隣でラップトップを開き、古代通信設備のログファイルを展開している。昨夜からほぼ眠っていない。目の下に薄い影が落ちていたが、指先の動きは正確だった。

「扉、扉、扉——セノはまだ同じ語を繰り返してる」

 汐音が手帳を翻すと、そこには「扉」に対応する星語りの記号が十六回分、縦に並んでいた。透真がちらりと視線を寄こす。

「量が多い。強調じゃなくて、鍵のかかった場所を叩き続けてる感じだな」

 汐音は頷き、レシーバーを耳に押し当て直した。扉の向こうに何があるか——セノは知っていて、しかし言語化できないでいる。それが歯がゆかった。記憶が断片的だと彼自身も言っていた。あの澄んだ、どこにも属さない声で。

 透真がキーを叩く音が止まった。

「汐音、ちょっと来てくれ」

 声の温度が変わっていた。

 画面には、機関のアーカイブから引き出した文書が広がっていた。走査線が細かく走る古い映像記録ではなく、テキストデータだ。三百年前の座標と日付が冒頭に刻まれている。汐音はモニターの前に膝をついた。

「これ、解読できるか」

 文書の大部分は星語りの記号で書かれており、所々に古い大陸語が混在していた。汐音の目が自然と記号列を追い始める。読む、というより、感じる、という感覚に近い。光のパターンを解析するときと同じ、体の右半分が先行して意味を受け取る不思議な感覚。

 しばらく沈黙が続いた。

「……これは、契約の条項だ」

 汐音が言うと、透真が息を詰めた。

「全部読めるか」

「全部じゃない。でも、骨格は」

 汐音は視線をモニターに固定したまま、手帳に訳文を書き始めた。星語りの記号が大陸語に、大陸語が透真の理解できる現代語へと、二段階で解凍されていく。

 最初の条項は、互いの存在を承認するという宣言だった。次が、信号の周波数を共有するという取り決め。そして——

 汐音の手が止まった。

「……どうした」

「待って」

 もう一度、記号を目で辿った。間違えたくなかった。一文字ずつ、ゆっくりと。

 第三条項。星語りの記号で書かれたその内容は、汐音の感覚の中でゆっくりと形を成した。

 人類は、宇宙へいかなる汚染も放出してはならない。

 大気を汚す行為を恒久的に禁じる。

 それを破った瞬間、契約は失効する。

 手帳を持つ指が、白くなるほど力んでいた。

「……汐音」

「読んで」

 透真が画面を覗き込み、汐音の訳文に目を走らせた。彼の顔から、少しずつ色が消えていった。

「宇宙への汚染の放出禁止、か」

 声が、ひどく静かだった。

 燈台の窓の外では、濁った海が暗闇の中で波を立てていた。空は光のない灰色だ。三百年前には、あの空に星が見えたはずだった。肉眼で、当たり前のように。

「大気汚染が始まったのは、いつだ」

 透真が独り言のように言った。答えを求めているわけではないことは、汐音にもわかった。歴史の年表は二人の頭の中に同時に浮かんでいたはずだ。大規模な工業化。排気の世紀。星が少しずつ見えなくなり、やがて完全に肉眼から消えた時代。機関の資料には、星語りが「封じられた」と記述されていた。強大な意志によって遮断されたのだと。

 でも。

「封じられたんじゃない」

 汐音が言った。

「失効したんだ。人類が——誓いを、破ったから」

 その言葉が部屋に落ちて、しばらく消えなかった。

 透真が椅子の背に深く寄りかかった。天井を向く。喉仏が一度、上下した。

「機関がずっと言ってきたのは『星語りは封印されており、その鍵を取り戻せば再開できる』という話だった。鍵さえあれば繋がれる、って。俺もそう信じて——」

 彼は途中で止まった。

 汐音は黙っていた。言葉を足すことが、今この瞬間には不誠実な気がした。透真の沈黙を、そのまま置いておきたかった。

 封印という言葉には、主語がある。誰かが封じたという構造だ。だから機関は「鍵」を探し、「解除」を目指していた。だが失効という現実には、主語がない。誰かが閉じたのではなく、人類自身が壊したのだ。

 汐音は手帳を閉じた。

 遥(はるか)が死ぬ前に、何度か繰り返した言葉があった。『汐音、空を汚したのは誰でもない、俺たちだ』——当時は燈台守の愚痴か、老人の感傷だと受け取っていた。今は違う重さで聞こえてくる。遥はどこまで知っていたのだろう。あの人が胸に抱えていた秘密の輪郭が、今夜初めて見えた気がした。

 涙が来なかった。来ない、というより、来るべき感情がまだ形を持っていなかった。

 セノのレシーバーが、微かに振動した。

 汐音は反射的に耳に当てた。信号は弱く、不規則だった。「扉」の繰り返しではなく、別の語彙が混じり始めている。

——わたしは、覚えている。

 汐音の全身が強張った。

「セノ」

 声に出すと、振動がわずかに強まった。応えるように。

——あの日、空が赤くなった。誓いの最後の夜。わたしは見ていた。

「あなたは——どこにいたの」

 透真が立ち上がり、汐音の肩越しにレシーバーを見た。

——わたしは扉の、内側にいた。

 信号が一度、大きく揺れた。そして静かになった。

 汐音は息を吸った。深く、ゆっくりと。

 セノは「扉の内側」にいた。封じられた側ではなく、失効した契約の空間に残された存在。三百年間、ずっとそこにいた。人類が誓いを破った夜から、ずっと。

 それは哀しかった。どの言葉よりも先に、哀しみが来た。

 透真が静かに言った。

「汐音、セノはたぶん——契約そのものを記憶してる。当事者として」

「うん」

「だとしたら、彼が『扉』と呼んでいるものは」

 汐音は答えなかった。でも、同じ考えが頭の中にあった。

 扉は鍵を必要としない。鍵が問題なのではなく、扉を開く資格——誓いを新たに結ぶ意志こそが、問われている。

 窓の外の空は、相変わらず星を隠していた。三百年分の汚染が、今夜もそこにある。でも汐音は初めて、その空を「壁」ではなく「問い」として見た。

 手帳を開き直す。

 新しいページに、一行だけ書いた。

 ——どうすれば、誓いは結び直せるのか。

 それはまだ答えのない問いだった。しかし問いの形が定まった瞬間、汐音の内側で何かが静かに動き出した。

 セノの信号が、再び届き始めた。今度は「扉」ではなく、まだ解読できていない語彙だった。しかしその振動のリズムは汐音の知らない感情に似ていて——それは、汐音が生まれて初めて感じる種類の「待っていた」という響きに、どこか似ていた。

燈台守の子と、声なき星たちの譜

28

契約の「禁忌」が見えてくる

沖野汐里

2026-06-10

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