朝の光が、汐音の眠れなかった理由を照らし出すように差し込んできた。
窓の向こうは灰色の海だ。雲の底が低く、水平線を消してしまっている。霧が島を包み込む季節になると、燈台の光は余計に鈍く拡散して、何も照らせないまま闇に溶けていく。汐音はそれがずっと好きだった。届かない光にも、届こうとする意志がある。遙に教わったことではなく、ただそう感じていた。
透真は昨夜、燈台の外にある物置小屋に泊まらせた。招き入れるには、まだ何かが足りなかった。
足りないものが何かは、わかっていた。信頼だ。けれど信頼というのは形がなくて、貯まっているかどうかを確かめる方法がない。汐音はいつも、それが困った。
朝食の準備をしながら、彼女は昨日の自分の判断を反芻した。手記を秘密にする条件で協力を申し出た。透真はその条件を、あっさりと受け入れた。あっさりすぎた。
あっさり受け入れる人間には、二種類いる。条件など最初から気にしていない者と、条件を承諾したふりをして後で覆すつもりの者だ。透真がどちらかは、まだわからない。
卵を割りながら、汐音は昨夜透真の横顔を観察したときのことを思い出した。彼は機関から渡された解読資料を広げ、蒼井家の居間で黙々と何かを照合していた。指先の動きは迷わなかった。どこを見ればいいかを知っている者の動きだった。研究者というより、何かを探している人間の動きに似ていた。
探し物がある人間は、隠し事もある。
卵が焼けた。汐音は皿に盛り、外に出た。
物置小屋のドアをノックすると、すぐに返事があった。
「起きてる」
「朝食」
「ありがとう」
それだけの言葉を交わした。透真は受け取った皿を見て、それから汐音を見た。
「遙さんの容態は」
「熱が下がってない」
「医者は」
「船で呼ぶしかない。昨夜も霧で来られなかった」
透真は皿を持ったまま、少し黙った。計算しているのか、心配しているのか、汐音には判断できなかった。感情と思考が顔に出ない人間というのが世の中にはいて、透真はそのたぐいらしかった。
「地下に、行く予定は」
唐突な問いだった。汐音は答えなかった。
答えないこと自体が答えになると気づきながら、それでも沈黙を選んだ。判断を先延ばしにしているのではない。まだ、何かが足りなかった。
——足りないものが何かは、わかっていた。
午前中、汐音は遙の部屋で過ごした。
老人は眠っていた。眠っているのに、口元だけがときおり動く。夢を見ているのか、あるいは夢と現実の境界が崩れかけているのか。汐音はその傍に座って、遙の呼吸を聞いていた。息が乱れていた。乱れ方に、パターンがあった。
三回深く、一回浅く。三回深く、一回浅く。
汐音は眉をひそめた。それは地下から上がってくる振動と、周期が似ていた。
昼前に、透真が部屋を覗いた。汐音が目で問うと、彼は小声で言った。
「少し話せますか。遙さんのことで、気になることがある」
廊下に出た。透真は手元の端末を開かずに、口で言った。
「昨夜、解読資料を照合していて気づいたことがあります。星語りの受信記録、三百年前の最後のものなんですけど、送信地点の座標が——」
「この島の真下」
透真が止まった。
「知ってたんですか」
「遙の手記に出てくる」
「手記に」
沈黙が廊下を満たした。透真の目が、汐音の顔をゆっくりと読もうとしていた。汐音はそれを受け流しながら、観察し返した。
驚きの中に、安堵に似た何かがある。予想が当たったときの安堵だ。
「——あなたは最初から、私が何かを知っていると思っていた」
言葉にしたのは衝動的だった。透真の目が、一瞬だけ揺れた。
「そういうわけじゃ」
「言わなくていい。否定しなくていい」
汐音は透真の顔から視線を外した。廊下の先、遙の部屋のドアが薄く開いている。その隙間から、老人の乱れた呼吸が漏れてくる。
「あなたが何を考えているかは、半分くらいわかる。残り半分は、まだわからない」
「……半分でも、たいしたものですよ」
「誤魔化さないで」
透真が口を閉じた。今度は誤魔化しではなく、本当に黙った。
その沈黙の質が、少し違った。
「俺が機関の思惑通りに動いているかどうか、それを見極めようとしてるんでしょう」
汐音は答えなかった。
「俺も、機関の全部を信じてるわけじゃない。それだけは、言っておきたかった」
「証拠はない」
「ないです」
「だから信じる理由もない」
「そうですね」
また沈黙が来た。けれど今度のそれは、最初の廊下の沈黙とは違った。何かが薄く、動いていた。
そのとき、遙の部屋から声が聞こえた。
老人の声だった。夢の中から上がってくるような、掠れた声だった。
二人は同時に部屋に入った。
遙は目を開けていた。焦点が定まっていない目だった。汐音が手を握ると、指先だけが反応した。
「遙、わかる?汐音だよ」
老人の視線がゆっくり動いた。汐音の顔を見て、それから——透真の顔を見た。
そのとき遙の表情が、微かに変わった。
恐れではなかった。驚きでもなかった。それは、疲れた者が長い旅の終わりに見せる、どこか諦めに似た、しかし拒絶ではない表情だった。
「……また、来た」
かすれた声だった。けれどはっきりと、そう聞こえた。
汐音は透真を見た。透真は老人を見たまま動かなかった。
また。その一語が廊下に残っていた。
透真が来たのは昨日が初めてだった。汐音はそれを知っている。けれど遙の「また」には、昨日への言及を超えた重みがあった。初めてではない何かへの、反応だった。
「遙、この人を知ってる?」
老人は答えなかった。目を閉じた。呼吸が三回深くなり、一回浅くなった。
汐音は立ち上がり、部屋を出た。透真もついてきた。
廊下で、二人はしばらく何も言わなかった。
「俺、遙さんと会ったことは」
「ない、んでしょう」
「少なくとも、俺の記憶には」
少なくとも。その言葉を汐音は拾い上げた。記憶がない、ではなく、記憶には、という言い方だった。
「透真さん」
「はい」
「あなたの師匠は、誰ですか」
また間があった。今日一日で、透真は何度も黙った。けれどこの沈黙は、他のものとまた質が違った。
「……なぜ、それを」
「答えたくなければいい」
透真は窓の外を見た。霧はまだ晴れていなかった。
「機関に入る前に、俺に星語りの基礎を教えてくれた人がいます。その人は今、いない」
「亡くなった?」
「わかりません。ある日、消えた。機関はその人について話すことを、嫌がる」
汐音は黙って聞いた。
「その人が、なぜかこの島に縁があったらしいことは、断片的に知ってる。それが今回の派遣に関係しているかどうかは、俺にも、まだわからない」
霧の中で、燈台の光が鈍く回っていた。届かない光が、何かを照らそうとしている。
汐音は決めた。
足りないものは、たぶんこれ以上待っても埋まらない。信頼とは、足りないまま踏み出すことで初めて積まれるものかもしれなかった。遙がそう言ったことはない。けれど、そう生きているのを見てきた。
「明日」
透真が汐音を見た。
「明日、地下に案内します。ただし、私が止めたら従ってください」
透真は頷こうとした。汐音は続けた。
「それと——地下に何があるか、機関には私が許可するまで報告しないで」
今度の沈黙は短かった。
「わかりました」
またあっさりと、透真は受け入れた。
けれど今回のあっさりは、昨日のそれと何かが違うと、汐音は感じた。それが何かを言葉にする前に、透真は廊下の先へ歩いていった。
遙の部屋から、また呼吸が聞こえた。三回深く、一回浅く。
汐音は部屋に戻り、老人の手を握り直した。その手は、何十年分もの潮風を染み込ませていた。
——また来た。
その言葉の意味が何であれ、遙は知っていた。汐音が知らない何かを、ずっと知っていた。
地下には信号がある。信号の中には、セノがいる。
そしておそらく——遙の手記の最後の頁に書かれていた、汐音がまだ声に出して読めていない一文が、何かを繋いでいる。
明日、踏み込む。
それは決断ではなく、もしかすると、ずっと前から決まっていたことへの、ただの追認かもしれなかった。