夜が深まるにつれ、小屋の布壁が微かに震えた。

 糸子は最初、それを風のせいだと思った。オリカの小屋は縫界の辺境に建つ、幾重にも古い記憶布を重ねた丸みのある小さな建物で、壁そのものが呼吸するように伸縮する。それが今夜はどこか違う、と感じたのは本能だった。針の感触が、指先にじりじりと集まってくる。

「……来る」

 呟いたのは公爵だった。

 灯台油の灯りの下、地図を広げていた彼が顔を上げる。その目が、いつになく鋭く細くなっていた。体中に縫い付けられた他人の記憶布が、ざわりと波打つ。まるで一枚一枚が別々の恐れを叫んでいるように。

「何人だ、オリカ」

 問われた老女は竈の火を箸でつつきながら、小さく舌打ちした。皺だらけの顔に刻まれた表情は、怒りとも諦めともつかない複雑な色をしている。

「三人。馴染みある縫い目だ。ガルデの縫い師どもだね」

 リィナが立ち上がった。軽快な仕草でいつも荷物を担ぐ細い肩が、今だけは少しだけ丸まっている。それを糸子は見逃さなかった。

「ここまで追ってくるとは思わなかった。私の行動読まれてたかな」

「違う」

 オリカがぴしゃりと言い切る。

「お前たちが来たことは関係ない。奴らは最初からここを目当てに来た。縫守の家というのはな、記憶の集積地なんだ。ガルデにとってはこれ以上ない獲物だよ」

 糸子は立ち上がり、窓の布を指一本でめくって外を窺う。満月に照らされた荒野が広がっていた。草と呼べるものは記憶の糸が地面から伸びたような細い繊維だけで、夜風にそよぐその様子は美しくも不気味だ。そして遠く、三つの影が確かに近づいてくる。背丈はばらばら。だが歩き方に一切の迷いがない。命令を受けた者の足取りだ。

「外に出る」

 口から出た言葉は、自分でも驚くほど落ち着いていた。

「ここで待ってたら小屋に傷が入る。オリカさんの記憶が解けちゃう」

「糸子」

 公爵の声に、珍しく硬さがあった。名前を呼ばれることに未だ微妙な感触を覚える糸子だが、今その音は不思議なほどまっすぐ胸に届いた。

「怖くないのか」

「怖い」

 即答した。

「でも針が呼んでる。指が痛いくらいうずいてる。これ、止める方が難しいんだよね」

 公爵が何か言いかけて、やめた。代わりに立ち上がり、外套の裾を払う。彼の体に縫い付けられた布たちが、その動作に合わせてひとつひとつ揺れた。まるで深呼吸するように。

 リィナが嘆息する。

「はあ。しょうがない。私も行く。でも最初に言っておくけど、私は逃げ足が自慢なのであって戦いは専門外ね」

「嘘をつくな」

 公爵が言うと、リィナは肩をすくめて笑った。その笑みの奥にある何かを、糸子はうまく読めなかった。

 小屋の外に出ると、夜気が肌を刺した。縫界の夜の空気は布の繊維が混じっているせいか、少しだけ重い。遠くのドームの光が地平線をぼんやりと染めている。

 三つの影は、もう五十歩ほどの距離まで迫っていた。

 先頭に立つのは長身の男だった。羽織った上着の縫い目がやけに鋭く、ガルデの流儀で整えられた「縫い師」の証を体に帯びている。縫界において、縫い師は記憶布を操り、地形すら変えることができる。彼らが戦いに臨む時、その針は武器になる。

「縫守の家の者どもか」

 男が低い声で言った。

「我々はガルデ商会の者だ。この地の記憶布の目録提出と引き渡しを求める。穏やかに応じるなら、命は取らない」

 糸子は、この世界に来てから初めて「命は取らない」という言葉を正面から受け取った。怖いと思う。だが同時に、腸の奥底から何かが沸き上がってくる感覚があった。

「断る、と言ったら?」

「ならば実力を行使するまでだ」

「そっか」

 糸子は針を抜いた。常に懐に忍ばせている、母の形見とも知れぬ一本の細針。それが今夜は熱を持ち、指に吸い付くように馴染んでいる。

「だったら実力、見せてよ」

 男が手を動かした瞬間、地面が割れた。

 正確には、地面を構成していた記憶布が急速にほつれ、その裂け目から別の布が引き出されてくる。分厚い、暗い色の布が蛇のように伸び、糸子の足元へ向かってくる。それは足を絡め取り、地面に縫い付けるための「束縛布」だ。

 が、糸子の針はすでに動いていた。

 右に跳び、針を振る。自分でも説明できない感覚のまま、空中に縫い目を走らせる。針から出た糸が束縛布を捕まえ、ぐるりと巻き取る。縫い取るというより、絡め返す。記憶布同士が鬩ぎ合い、一瞬だけ空中で模様のような光を描いた。

「面白い動きをする」

 男が初めて表情を変えた。

 その隙を、公爵が逃さなかった。

 彼の動きは糸子が今まで見たどんな縫い師とも違う。体に縫い付けられた記憶布を次々と手元に手繰り寄せ、それを圧縮して投げつける。他人の記憶が凝縮した布の塊は、それ自体が強烈な質量を持つ。男の仲間のひとりがまともに受け、数歩後退した。

 リィナはと言えば、いつの間にか小屋の陰に回り込み、背後から接近しようとした三人目の縫い師の足元へ何かを放っていた。薄い布の断片、それが地面に触れた瞬間に弾けて、縫い師の視界を記憶の断片で埋める。白昼夢を見せる「惑わし布」だ。やはり、逃げ足専門ではない。

 だが三人の縫い師は手練れだった。

 男が声を上げる。

「『大ほつれ』が進めば進むほど、この縫界の土地は無主になる。無主の記憶布はガルデ商会が管理する。それは縫界法で認められた正当な権利だ」

 糸子の足が一瞬止まった。

「だからガルデ様はな」男の声に、奇妙な熱が混じり込んだ。「崩壊を、待っているんだよ。いや、手伝っている。縫界が壊れれば壊れるほど、土地が増える。記憶が増える。縫界全土がガルデ商会のものになる」

 大ほつれを、意図的に。

 言葉の意味が頭に落ちた瞬間、糸子の中で何かが音を立てた。

 怒り、とはまた少し違う。もっと根の深いところから来る、激しい拒絶の感覚。縫界を構成するひとつひとつの記憶布には、誰かの生があった。誰かの朝があり、誰かの声があり、誰かの別れがあった。それを商品と呼んで、崩れるのを笑って待っているというのか。

 針が震えた。いや、糸子の手が震えていた。

「ふざけんな」

 声が、低くなっていた。

 男がこちらを見る。

「ふざけんな、って言ったんだ」

 針から糸が伸びた。いつもより太く、いつもより速く。糸子自身も制御できていない速さで、それが男へ向かっていく。男は慌てて布の盾を展開したが、糸子の糸はその縫い目の隙間を縫うように貫いた。盾が、ほつれる。

 男の顔に、初めて驚きが浮かんだ。

「お前、まさか……」

「次の話は後でしよう」

 割り込んだのは公爵の声だった。

 彼が糸子の隣に立ち、袖をわずかに捲る。その腕に縫い付けられた、見覚えのない黒い布が一枚。彼がそれを引き剥がした瞬間、周囲の空気が変わった。

 古い記憶の、凄まじい圧。それが一気に解放される。

 三人の縫い師が揃って後退り、そのうちひとりが膝をつく。

 男だけが踏みとどまり、唇を噛んだ。

「覚えておけ。ガルデ様の手は、縫界の果てまで届く」

 そう言い捨てて、三人は夜の荒野へ溶けていった。

 残されたのは、荒れた地面と、ほつれかけた布の残骸と、三人の静寂だった。

 糸子は針を握ったまま、ゆっくりと息を吐いた。手が、まだわずかに震えている。怒りか、それとも高ぶりか、自分でもよくわからない。

「怪我は」

 公爵が問う。

「ない。あなたは」

「問題ない」

 短い確認。それで十分だった。

 リィナが小屋の陰から歩み出てきて、夜空を仰ぐ。

「ガルデが崩壊を手伝ってる、か。最悪だね」

 その声は軽くない。初めて聞く、重たいリィナの声だった。

 糸子は荒野の先を見つめた。男が消えた方角の、さらに遠く。縫界の大ほつれは、既に誰かの意志で動かされている。

 原初の庭園を目指さなければ。それが今よりずっと、確信になっていた。

 公爵が隣に立つ気配がした。何も言わない。ただそこにいる。それが今夜は、ひどく心強かった。

廃園の継ぎ接ぎ公爵と、名前を売った少女

25

ガルデの手が伸びる

緒方 縹

2026-06-07

前の話
第25話 ガルデの手が伸びる - 廃園の継ぎ接ぎ公爵と、名前を売った少女 | 福神漬出版