羊皮紙はひどく古びていた。折り目の端が茶色く滲み、触れると指先に土の匂いが移るほどだった。糸子はそれを両手で捧げるように持ち、小屋の窓から差し込む午後の光にかざした。細い線で描かれた縫い道が、光の角度によって金糸のように浮かび上がった。

 「綺麗」と糸子は呟いた。呟いてから、綺麗などと言っている場合ではないと思い直した。

 手下たちはとっくに退いていた。廃園の外れまで追い散らした公爵が戻ってきたのは、糸子が縫い合わせた盾の残骸を片付け終わった頃だった。彼は外套の袖口が少し破れていて、それを自分で縫い直しながら戸口をくぐった。針仕事をしながら歩くのは彼の癖らしく、糸子はその所作を見るたびに妙な安堵を覚えた。

 問題はオリカだった。

 老女は小屋の奥の椅子に腰かけたまま、湯気の消えた茶を両手で包んでいた。先ほどの騒動をまるで遠い出来事のように眺めている顔つきだったが、その目だけは静かに鋭かった。縫守というのはこういう目をしているのだろうか、と糸子は思った。何十年も縫界の縫い目を見守ってきた目。ほつれを見抜く目。

 「聞いていいですか」

 口を開いたのは糸子だった。公爵はちらと視線を寄越したが、止めなかった。

 「公爵の本名です。あなたは知っているでしょう」

 オリカの指が、茶碗の縁でわずかに動いた。止まった。

 「どこでそれを」

 「知っているとは言っていません。でも、あなたは知っている顔をしている」

 公爵が低い声で「糸子」と言った。咎めているのか、感心しているのか、その中間のような声だった。

 オリカはしばらく沈黙した。窓の外で風が鳴り、廃園の枯れた布葉がざわざわと揺れた。記憶の古くなった布は、風が吹くとこういう音を立てる。織り目が緩んで、中に詰まっていたものが少しずつ零れていくような音だ。

 「知っている」とオリカはやがて言った。「だが、言えない」

 「なぜ」

 「その名前を声に出すと、縫い目に影響する」

 糸子は眉を寄せた。「縫い目に?」

 「縫界の縫い目はな、ただの糸で綴じられているわけではない。名前で縫われている部分がある。ある特別な名前が、縫界の根幹と共鳴している。その名を不用意に口にすると、縫い目が反応する。特にここのように古い記憶が堆積した場所では」

 オリカは一度目を伏せた。「最悪の場合、この廃園が消える」

 「それは」と糸子は言いかけて、止まった。廃園が消える。ガルデが消去しようとしているものを、うっかりした一声で引き起こしてしまうということか。

 公爵は何も言わなかった。外套の袖口を縫い終えた針を、ゆっくりと懐に仕舞った。その表情は相変わらず読めなかった。皮肉を言うでもなく、落胆を示すでもなく、ただ静かにそこに立っていた。

 あまりにも慣れている、と糸子は思った。

 自分の本名が聞けないことに。自分が何者か分からないことに。

 「慣れているんじゃなくて、諦めているんだ」

 声に出すつもりはなかった。けれど言葉はもう空気の中にあって、公爵がわずかに顔を向けた。

 「うるさい」と彼は言ったが、声に棘はなかった。

 「……ごめんなさい」

 糸子は視線をオリカに戻した。老女は糸子と公爵を交互に見て、それから静かに息を吐いた。

 「名前を言えないのは、お前たちを傷つけたいからではない」

 「分かっています」と糸子は言った。「でも」

 でも、という言葉が宙に浮いた。でも、では続かなかった。納得できない、という感情があるだけで、それを言葉にする術を糸子はまだ持っていなかった。

 オリカが茶碗を卓に置いた。磁器が木に触れる、小さな音。

 その時、糸子は気づいた。

 老女の手が、震えていた。

 ほんのわずかだった。外から見れば、疲れた老人の筋肉の痙攣とも見分けがつかないほどの。けれど糸子は見逃さなかった。長いこと針と糸を扱ってきた目が、他人の指先の動きに敏感になっていた。

 震えている。

 言えないのではなく、言いたくて、それを必死に抑えている。

 「オリカさん」

 呼んだら、老女の目がわずかに揺れた。

 「もしかして、あなた自身も、誰かを守ろうとしているんですか。その名前を言わないことで」

 オリカは答えなかった。答えないことが、答えだった。

 公爵が微かに息を飲む気配がした。糸子は振り返らなかった。振り返ったら、彼の表情を見てしまいそうで、そうしたら自分が泣きそうな気がした。理由はうまく言えないが、そういう予感があった。

 「教えてほしいとは、もう言いません」

 糸子は羊皮紙を胸に抱いた。「でも、一つだけ聞かせてください。あなたが怖いのは、縫い目が解けることですか。それとも、別の何かですか」

 長い沈黙だった。

 廃園の風がまた鳴った。布葉が揺れて、記憶の欠片がはらはらと落ちる音がした。

 「両方じゃ」

 オリカの声は、初めて老いていた。縫守としての重さではなく、ただの老いた人間の声で、そう言った。

 「両方、怖い」

 それきり老女は口を閉じた。目も伏せた。茶碗に向かって何かを念じるように、ただそこに座っていた。

 糸子は促されるまでもなく立ち上がった。公爵も黙ってついてきた。小屋の戸口で一度だけ振り返ると、オリカの後ろ姿が見えた。小さな背中だった。縫界の均衡を何十年も支えてきた人間の背中が、こんなに小さかった。

 外に出ると、日が傾きかけていた。廃園の布地の空が橙に染まり、古い記憶の色をしていた。

 「行くぞ」と公爵が言った。

 「うん」

 二人は並んで歩き出した。糸子は羊皮紙を外套の内側に仕舞い、針入れを握りしめた。指先が少し熱かった。感情が乗り移りかけているのだ。悔しさか、悲しさか、それとも何か別のものか、糸子には判別できなかった。

 ただ一つ分かることがあった。

 オリカは知っている。公爵の名前を知っていて、知っているがゆえに黙っている。そしてその沈黙は、優しさか恐怖か、あるいはその両方からできている。

 誰かを守るために黙ること。

 糸子はそれが何を意味するのか、まだ理解できていなかった。けれど、理解できないまま先を歩くことなら、できる気がした。

 「ねえ」と糸子は言った。

 「なんだ」

 「あなたの名前、私が先に見つけてもいいですか。オリカさんより先に」

 公爵は少しの間、何も言わなかった。廃園の枯れた道を踏みながら、どこか遠くを見ていた。

 「好きにしろ」とやがて言った。

 声が、ほんの少しだけ、低くなっていた。

 糸子は前を向いた。羊皮紙の中の縫い道が、胸の中で光るような気がした。原初の庭園への道。そこに何かある。名前があるかもしれない。あるいはもっと別の、まだ言葉にならない何かが。

 見つけてみせる、と糸子は思った。

 オリカの手の震えを、忘れないうちに。

廃園の継ぎ接ぎ公爵と、名前を売った少女

27

オリカが語れないこと

緒方 縹

2026-06-09

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第27話 オリカが語れないこと - 廃園の継ぎ接ぎ公爵と、名前を売った少女 | 福神漬出版