夜明けの光が布地を透かすように、空はうすく白んでいた。
糸子は荷物を背負い直しながら、公爵の三歩後ろを歩いていた。リィナがいなくなってから、二人のあいだには妙な静けさが満ちていた。不快な沈黙ではない。ただ、言葉を出す必要がどこにもないような、そういう種類の静けさだった。
縫界の道はどこを歩いても布の感触がある。踏みしめるたびに、足の裏がわずかに沈む。地面そのものが幾重もの記憶布で織られているからだ。古い道ほど踏み固められて硬くなり、新しい道は綿を踏むようにやわらかい。この道はちょうど中間くらいで、長く歩くのに向いていた。
公爵は無言で歩く。背筋が真っ直ぐで、歩幅が一定で、振り返らない。彼の外套は継ぎ接ぎだらけで、縫い目がそこかしこに走っている。肩のあたりには濃紺の布、腰には茶色がかった古い麻布、袖口には白に近い銀糸の細かい刺繍が入った切れ端。全部がばらばらで、全部が彼を形作っている。
糸子はいつの間にか、それを数えていた。
縫い目の数を。
最初は意識していなかった。ただ視線が公爵の背中に落ちて、そのまま自然に縫い目を追っていた。肩から袖へ走る太い縫い目が一本、二本。腰の継ぎ目が三本、四本。外套の端に沿った細かい縫い目が――
「何をしている」
公爵が振り返らずに言った。
糸子は一瞬、足を止めた。
「……数えてた」
「何を」
「縫い目」
少し間があった。公爵はようやく立ち止まり、半身だけを糸子のほうへ向けた。眼差しが鋭い、というより、よく読めない顔をしている。
「縫い目を数えてどうする」
糸子は少し考えてから、正直に答えた。
「減らないように見張ってる」
公爵はなにも言わなかった。
ただ、その沈黙の質が少し変わった気がした。糸子は自分でも少し恥ずかしくなって、視線を道の先に逃がした。
「変なこと言ったのは分かってる。ただ、なんか、気になって。あなたの縫い目が一本でも解けたら、すぐ気づけるかなって思って」
「余計な心配だ」
「そうかもしれない」
「実際、縫い目が解けても外見からすぐには分からない。記憶は内側から崩れる」
「知ってる」
公爵が眉をわずかに動かした。
「知っていて、それでも数えるのか」
「うん」
糸子はあっさりと言った。論理の問題じゃない、という顔だった。公爵はしばらく糸子を見ていたが、やがてまた前を向いて歩き始めた。
糸子も歩く。今度は二歩後ろではなく、公爵の斜め隣に並ぶくらいの距離を保ちながら。
風が吹くと、道沿いの低木の葉がさわさわと揺れた。葉の一枚一枚が薄い布のように見えるのは、縫界ではさほど珍しいことではない。植物でさえ、記憶布の堆積から育つからだ。古い葉ほど色が深く、落ちた葉は地面に溶けて土になる代わりに、そのまま薄い一枚布として重なっていく。
「ねえ」と糸子は言った。
「なんだ」
「縫い目って、全部で何本あるの」
「数えたことはない」
「嘘だ」
今度の沈黙は、少し長かった。
「……昔は数えた。今は数えない」
「なんで」
「知っても意味がない」
「意味って何」
公爵は答えない。糸子は畳みかけるでもなく、ただ横を歩きながら空を見上げた。縫界の空はいつも少しだけ、布越しの光みたいな感じがする。直接ではなく、何枚かのフィルターを通した光。それでも温かい。
「私ね」と糸子は独り言のように言った。「名前を売ったとき、自分が何者か分からなくなったんだけど、そのとき一番こわかったのって、鏡を見ても自分の顔が覚えられないことじゃなかったんだよね」
「ならなんだ」
「数が、分からなくなること」
公爵が少し首を傾けた。
「自分のことで、どこまでが自分かを数えられなくなること。この傷は誰の傷か、この癖は誰の癖か、これが私であれが私でないって区別する基準が全部ぐちゃぐちゃになって。それが一番気持ち悪かった」
沈黙。
遠くで鳥に似た何かが鳴いた。布でできた翼が、空気を裂く音がした。
「だから」と糸子は続けた。「縫い目の数を数えることって、そんなに無意味じゃないと思う。少なくとも私には」
公爵はまた、しばらく黙っていた。
「……三百四十七本だ」
糸子は目を丸くした。
「数えてるじゃん」
「昔の話だ」と公爵は言った。声が少し低い。「今は増えているかもしれないし、減っているかもしれない。だから意味がないと言った」
「三百四十七本」糸子は繰り返した。「私が見張ってるのは今のあなただから、昔の数は関係ない」
「……論理が雑だ」
「でも間違ってはいないでしょ」
公爵は返事をしなかった。それは否定ではないと、糸子には分かった。
道が緩く上り坂になっていく。縫い目の町まではまだ一日半はかかる。空の光が高くなるにつれて、道沿いの布葉が白み始めた。昼に近い色だった。
糸子はまた、自然に公爵の背中へ視線を戻していた。肩の縫い目、袖の縫い目、腰の継ぎ目。数えながら、自分でも気がついていなかったことに気がついた。
数えることは、見ていることだ。
見ていることは、覚えていることだ。
公爵は自分の縫い目を数えることをやめた。でも糸子は数える。それが何の保証にもならないことは分かっている。縫い目が解けるとき、外からは分からない。それでも数える。減っていないことを確認する。記憶のかわりに目を使って、繰り返し確かめる。
それはたぶん、名前のない形の何かだった。
「三百四十七」と糸子は小声で言った。「覚えた」
公爵の歩みが、一瞬だけ止まった。止まったが、振り返らなかった。
「……馬鹿にしているのか」
「してない」
「縫い目など覚えてどうする」
「さっき言った。見張るため」
また沈黙。今度の沈黙は違う質感をしていた。固くも柔らかくもなく、ただそこにある。夕方の光が斜めに差し込む部屋の静けさに少し似ていた。
公爵が歩き始める。糸子もついていく。
上り坂の頂上に出ると、遠くに布地の町の輪郭が霞んで見えた。縫い目の町ではない。通り道の小さな集落だろう。そこで一晩休んで、明日の朝また歩く。
「一つ聞いていいか」
公爵が言った。糸子は少し驚いた。彼から問うのは珍しい。
「何」
「お前が名前を売ったのは、何かと引き換えにするためだったのか。それとも捨てたかったのか」
糸子は坂の上に立って、遠い集落を見ながら考えた。
「……分かんない」と彼女は言った。「でも、後悔はしてない」
「なぜ」
「あなたに会えたから」
それは思ったより素直に出てしまった言葉で、糸子は少し耳が熱くなった。しかし公爵を見ると、彼はただ前を向いたまま、少しだけ口元が動いていた。何を言おうとしたのか、言葉にはならなかった。
坂を下り始める二人の影が、夕方の布地の空に長く伸びた。
糸子はまた、数えながら歩いた。
三百四十七。三百四十七。
その数字が減らないように、今日も見張り続けると、心の中でだけ決めた。
縫い目の町で、リィナは待っている。
でも今は、もう少しだけこの静けさを歩いていたかった。