ステッチタウンは、縫界のどの都市よりも色が多かった。
ドームを覆う布が幾重にも重なり、差し込む光が七色の影を落とす。石畳のように敷き詰められた端切れは足の裏に柔らかく、踏みしめるたびに誰かの記憶が熱として伝わってくる気がした。市場の軒先には見知らぬ土地の布が揺れ、行き交う人々の肩には色とりどりの継ぎ当てが光る。賑やかで雑多で、どこか体温の高い街だった。
糸子は入口の門をくぐりながら、思わず息を吸い込んだ。
「……すごい」
「感心している場合ではない」
隣を歩く公爵がぼそりと言う。彼の継ぎ接ぎの外套は、この街ではさほど目立たなかった。誰もが何かを縫い合わせて着ているのだ。
「リィナならあそこにいる」
公爵が顎を向けた先、市場の中ほどにある広場の縁で、見慣れた背中が見えた。赤みがかった栗色の髪。肩にかかる大きな行商袋。ほつれ屋のリィナは一人、石に腰掛けて何かを縫っていた。
糸子は駆け寄ろうとして、ふと足を止めた。
リィナの手が止まっている。縫いかけの布を膝に置いたまま、どこか遠くを見つめている。その表情は、糸子の知っている軽快なリィナとは、少し違った。
「リィナ」
声をかけると、彼女はすぐに顔を上げた。ぱっと目が明るくなって、いつもの笑みが戻る。
「あ、二人とも!遅かったじゃない。私もう三回もここで同じ布縫い直したんだけど」
「嘘だ、初めて触ってる顔だった」
公爵が静かに言うと、リィナは一瞬だけ目を細めた。それだけだった。笑みは消えなかった。
「相変わらず嫌な観察眼ね」
三人はしばらく市場を歩き、宿を取ることにした。ステッチタウンには記憶布の問屋が多く、旅人向けの宿も充実している。糸子たちが選んだのは、町外れの小さな織物宿だった。壁一面に古い布が貼り巡らされており、眠るだけで誰かの夢を見そうな場所だった。
夕食を食べながら、三人は次の行程を話し合った。リィナが地図を広げ、縫界の南西にある「原初の縫い台」へと続く経路を指でなぞる。その指先が迷いなく動くのを、糸子はぼんやりと眺めていた。
こんなにも詳しいのは、なぜだろう。いつも先回りしているのは、なぜだろう。
そういう疑問が胸に浮かんでは、消えていた。リィナが信頼できる仲間だという実感が、問いを押し流してきた。
けれどその夜、すべてが変わった。
糸子が宿の廊下で水を汲みに行ったとき、一階の食堂に人影があるのに気づいた。夜も更けた時刻だった。宿の主ではない。知らない男の声が、低く、はっきりと聞こえた。
「リィナ。報告は届いているぞ。ガルデ様はお前が連れてきた娘のことを、ずっと気にかけておられる」
糸子は階段の途中で動けなくなった。
息を殺す。耳だけが研ぎ澄まされる。
「余計なことを言いにきたの」
リィナの声だった。いつもの軽快さはなく、低く、疲れたような声だった。
「余計ではない。お前はまだガルデ様との契約の下にある。縫い台への道を、娘と公爵に教えた。それは——」
「知ってる。私が何をしているか、私が一番よく知ってる」
沈黙が落ちた。
「ガルデ様はお前に感謝しておられる。娘が縫い台に近づけば近づくほど、都合がいい。お前の仕事はもう少しで終わる」
足音がして、男は去っていった。
糸子はしばらく動けなかった。
廊下の薄暗さが、ずっしりと重くなった気がした。指が手すりを握りしめている。針と糸がふるふると震えている——そう感じるのは、きっと体の芯が揺れているからだ。
リィナが、ガルデと繋がっている。
私たちを、誘導している。
翌朝、糸子はいつものように起きて、いつものように朝食を食べた。リィナが「今日は問屋を見て回ろう」と言い、公爵が「好きにしろ」と言い、糸子は「そうだね」と答えた。
何も知らないふりをすることが、こんなにも重いとは思わなかった。
昼前になって、糸子は公爵に小声で伝えた。二人が並んで歩いているとき、少し離れた先にリィナがいる隙を突いて。
公爵はしばらく黙っていた。
「……聞こえていたのか」
「うん」
「全部」
「全部」
公爵は前を向いたまま、何も言わなかった。その横顔は変わらず無表情で、感情が読めない。でも糸子は、彼の外套の端が、微かに揺れているのを見た。風のない日だった。
「どうする」
「まだ何も」
それだけ言って、公爵は歩き続けた。糸子もその隣を歩いた。
問屋の一つで布を見ていたとき、リィナが不意に振り返った。
「ねえ、糸子」
「なに」
「あなたって、名前を売る前のこと、なんか残ってる?欠片みたいなのでも」
突然の問いだった。糸子は一瞬だけ手を止めて、それからゆっくりと首を横に振った。
「ほとんど、ない。たまに夢に出てくるけど、起きたら消えてる」
「そっか」
リィナはそれ以上何も言わなかった。でも糸子は気づいていた。彼女の手が、僅かに震えていたことを。
その夜も、糸子は眠れなかった。
今度は廊下に出るのではなく、窓の外を見つめていた。ステッチタウンのドームは夜でも光を帯びる。布に染み込んだ古い記憶が、微かな燐光を放つのだ。
リィナが私たちを誘導しているとしたら、それはなぜなのか。
私腹を肥やすためなら、もっと楽な方法があるはずだ。それにあの顔は——昨夜、男に話しかけられたときの、あの疲れた声は、利益のために動く人間のものではなかった。
糸子は針を取り出した。糸を通さずに、ただ指先で転がす。
昨日公爵が言っていた言葉が甦る。「まだ何も」。それはどういう意味なのか。まだ何も、決めるな、ということなのか。まだ何も、分からない、ということなのか。
どちらにしても、急いではならないと、糸子は思った。
焦って縫い合わせた布は、必ず歪む。
翌朝、食堂に降りると、リィナが一人でいた。珍しく早起きで、窓から外を見ている。糸子が隣に座ると、リィナはちらりと目を向けた。
「眠れなかった顔してる」
「リィナも」
そう言い返すと、リィナは少しだけ笑った。力の抜けた笑みだった。
「ねえ」と糸子は言った。「私たちって、友達だよね」
リィナが固まった。
ほんの一瞬のことだった。でもその一瞬に、糸子は多くのものを見た。驚き、痛み、そして——なにかへの怯え。
「……なんで急にそんなこと聞くの」
「聞きたかったから」
リィナはしばらく窓の外を見つめた。外では朝市の支度が始まっている。誰かが布を広げ、誰かが針を研ぎ、誰かが記憶を商品として並べている。
「糸子は」とリィナはゆっくり言った。「名前がなくても、自分が何者かって、分かる?」
「分かんない。でも分かりたいとは思ってる」
「そっか」
リィナはそれだけ言って、立ち上がった。「今日も行こ」と言う声は、いつもと同じ軽さを装っていた。でも糸子には、もうその声の裏側が、うっすらと透けて見えていた。
公爵が階段を降りてきたとき、三人の視線が一瞬だけ交差した。
何かが変わった。何かが変わって、それでもまだ言葉にはなっていない。
糸子は針を握った。糸はまだ通っていない。縫い合わせるべきものが何なのか、まだ分からない。
でも、分かる日は来る。
来なければ、自分で縫い直すまでだ。