夜の縫界は、昼とはまるで別の顔を持っていた。
市場の喧騒が引いた後、都市を覆うドームは静かに光を帯びる。無数の記憶布が重なり合い、縫い目のひとつひとつが淡い燐光を放つのだ。糸子はその光を、宿屋の窓枠に肘をついて眺めていた。
リィナのことを考えていた。
あの軽やかな笑顔と、その裏に貼り付いていた何かを。「感情針糸」という言葉が、まだ喉の奥にひっかかっていた。
自分が何者か分からない。名前を売り払ったから、そもそも「何者」という輪郭がない。けれどあの行商人の少女は、糸子の中に確かな何かを見つけたように言った。市場の人混みに消える前、振り返りもせず。
(廃園に行けば、分かる。そう言いたかったのだろうか)
思考がそこまで辿り着いた瞬間、部屋の空気が揺れた。
いや、揺れたのは空気ではなかった。
ドームだ。
最初は微かな震えだった。燐光がちらつき、縫い目の一本が波紋のように広がる。糸子は窓枠から身を乗り出した。北側の区画、市場から三つ四つ路地を挟んだあたりのドームに、黒い裂け目が走っていた。
「ほつれてる」
口から言葉が零れた瞬間には、もう走り出していた。
階段を駆け下り、宿の扉を押し開ける。夜気が頬を打った。路地は薄暗く、遠くで悲鳴のような声が上がっている。人々が外へ飛び出してきた。
「ドームが——!」「記憶が解ける、逃げろ——!」
逃げる人の流れに逆らって、糸子は走った。足が止まらなかった。なぜ止まれないのか、自分でも分からないまま。
路地を抜けると、視界が開けた。
そこで糸子は息を呑んだ。
都市の縫い目が、震えていた。
ドームの一角が大きく口を開け、夜空がそこから覗いていた。縫界の外の夜空は、星もなく、ただ暗い。記憶の光を失った空だ。ほつれた布の端が風にはためき、下の区画では石畳の一部がすでに薄くなり始めていた。記憶布が解けるとき、地面は透けるように白くなってから消える。糸子はそれを、誰かから聞いた気がした——いや、違う。読んだのかもしれない。どこで? 分からない。名前と一緒に、そういう記憶の文脈も少しずつ失われている。
広場に数人が立ち尽くしていた。逃げ遅れたのか、あるいは呆然として足が動かないのか。老人と子ども、それから荷物を抱えたままの女。彼らの頭上で、ほつれはじわじわと広がっていた。
糸子の指先が、熱くなった。
針だ、と思った。感覚が掌の中に滲んだ。リィナに言われた言葉が蘇る——感情が針と糸に乗り移る体質。昼間の市場でも感じた、あの奇妙な充溢感。今はそれが比べものにならないほど強く、指の骨の奥から湧き上がってくる。
気づけば手を伸ばしていた。
何を、どうするつもりだったのか、説明できない。ただ手を伸ばした。そうしなければならない気がした。感情が満ちて、針が現れた。光の糸が、指先から伸びた。
縫い目に触れる。
ほつれた記憶布の端と端を、指が引き寄せる。針が滑った。糸が走る。
光が広場を白く染めた。
一秒か、三秒か。
ほつれが、止まった。
完全に塞がったわけではなかった。継ぎ接ぎのような、粗い縫い目だった。けれど裂け目の拡大は止まり、はためいていた布の端が落ち着き、地面の白さが引いていった。老人がへたり込む。子どもが泣き声を上げる。女が荷物を落として糸子を見た。
糸子は立っていた。
指先に、細い糸が残っていた。光を帯びた糸。それが風に揺れて、やがて溶けるように消えた。
「……私が、やった」
声に出すことで、初めて実感が来た。
体質だとリィナは言った。感情が針と糸に乗り移る。だから昼間も、怒りが高ぶったときに指先が疼いた。今夜は恐怖だった。広場の人たちを失いたくないという、名前のない恐怖。それが針になって、糸になった。
(私は何をしたんだろう)
膝が震えた。自分の手を見下ろす。普通の手だった。何の変哲もない、記憶を売り払った少女の手。なのに今しがた、都市のドームを——縫界を形作る記憶布を——縫い繋いだ。
それが何を意味するのか、糸子には分からなかった。分からないから、余計に怖かった。
「見た」
低い声が背後から落ちてきた。
糸子は振り向く。
路地の陰から男が二人、歩み出てきた。市場でよく見かける類の服装だったが、どこか腕のつき方が違った。職人ではない。荷運びでもない。上質な布の袖の下に、何かが隠れている輪郭。
「あの娘だ。ちゃんと見たか」
「見た。感情針糸だ、間違いない」
糸子は一歩退いた。
「あの方にご報告しなければ」
あの方、という言葉の輪郭が、夜の空気に滲んだ。糸子にはその名を知らなかった。けれど背筋に走る冷たさは、名前など必要としなかった。
男たちが近づいてくる。
「待て」
今度は別の声だった。
男たちの足が止まった。糸子も息を止めた。
路地の反対側、薄明かりの中に人影があった。外套の裾が夜風に揺れる。顔の半分が影に沈んでいて、見えるのは頬から顎にかけての縫い目だけだった。記憶布を縫い付けた、継ぎ接ぎの肌。
公爵だった。
「この場所は今夜、騒がしい。記憶布の管理局も動いているはずだ」
静かな声だった。感情の起伏がほとんどない、淡々とした声。けれどその静けさが、妙な圧を持っていた。
「お前たちがここに長居すれば、管理局の記録に残る。それで構わないなら、好きにしろ」
男たちが互いを見た。やがて一人が舌打ちをした。
「今夜のところは退く。だが娘、覚えておけ」
それだけ言って、二人は路地の奥へ消えた。
糸子は公爵を見た。公爵は男たちが消えた方向を少し眺めてから、糸子に視線を移した。
「派手にやったな」
「……見てたんですか」
「たまたまだ」
たまたま、という言葉をどこまで信じていいか分からない。けれど今夜は問い詰める気力がなかった。糸子は膝の震えを堪えながら、自分の手を見た。
「私、知らなかった。こんなことができるなんて」
「知らなかったのか」
「知らなかった。名前を売り払ったとき、何かが変わった気はしてたけど、こんな……」
言葉が続かなかった。公爵は何も言わなかった。沈黙が落ちた。遠くで管理局の鐘が鳴り始め、ドーム修復の人員が向かってくる気配が広がった。
やがて公爵が口を開いた。
「そのほつれは、お前が繋いだ部分だけ縫い目が違う」
「違う?」
「素人の縫い目ではない。記憶布の縫い方を知っている者の手だ。それも、ずいぶん古い手法で」
糸子は顔を上げた。公爵は広場のほつれを眺めていた。
「古い、って、どういう——」
「辺境の廃園に行くつもりだろう」
問いではなかった。糸子は答えに詰まった。
「リィナが言っていた」と公爵は続けた。「あの女が誰かに廃園を示唆したなら、その誰かは必ず廃園に向かう。お前も例外ではない」
「……公爵は、廃園のことを知ってるんですか」
答えはなかった。
ただ、外套の裾を翻して歩き出す背中が、「ついてこい」と言っていた。
糸子は手を握り締めた。指先に、もうあの熱はなかった。針も、糸も。残っているのは、何かの始まりの予感だけだった。
それだけで、足は動いた。