雪が降り始めたのは、朔が蛭田志津の家に向かう道の途中だった。
空が急に低くなり、白い粒が顔に当たるたびに、頬の感覚が少しずつ奪われていく。教師として赴任してまだ一月も経っていないのに、東北の山間のこの寒さは、骨の奥まで染み込むものだと朔はすでに学んでいた。それでも足を止める気にはなれなかった。
紬の手帳に書かれていた文字が、脳裏から離れない。
丸い、子どもみたいな字で、「はなよめに なる」。
あの白い布の巻かれた手首。面談室での静かすぎる目。表情一つ変えないまま、まるでとっくに決着のついた話をするような、あの声の温度。
志津の家は集落の外れ、杉林に半ば隠れるように建っていた。板塀には苔がびっしりと張り付き、雪の重さでいまにも傾きそうな軒先が、朔を見下ろしている。前回訪れた時よりも、家が小さく見えた。あるいは自分が何か大きなものに近づいているせいで、周囲のすべてが相対的に縮んでいるように感じるのかもしれない。
戸を叩くと、しばらく間があってから、引き戸がほんの少しだけ開いた。
「また来た」
志津の声は、驚きとも諦めともつかない響きを帯びていた。
「また来ました」と朔は言った。「話を聞かせてください。今度は、ちゃんと答えてほしい」
老婆は細い目で朔を一瞥し、それから長い沈黙の後に戸を引いて、中へ入れと顎をしゃくった。
囲炉裏には今日も火が入っていた。煤で黒ずんだ天井、厚い毛氈の上に置かれた鉄瓶。朔が腰を下ろすと、志津は向かいに座り、火箸で灰をかき回し始めた。すぐには何も言わない。それがこの老婆の流儀らしかった。
「綾部紬の手首に、白い布が巻かれていました」
朔は切り出した。
「あれは何ですか。儀式に関係していますか」
火箸の動きが止まった。志津は灰の中の一点を見つめたまま、ゆっくりと息を吐いた。
「……花嫁布、という」
「花嫁布」
「人形に選ばれた娘に巻く。清めの意味と、それから」
言葉が途切れた。朔は先を促した。
「それから?」
「逃げられないようにする意味と」
部屋の空気が、一段重くなった気がした。囲炉裏の火が揺れ、志津の顔に影が差した。
「あなたは以前、姉妹が選ばれたとおっしゃっていましたね」
朔は静かに言った。「その時も、花嫁布を?」
志津の手が、膝の上で止まった。
「……秋枝、という名だった」
絞り出すような声だった。
「わたしの、三つ下の妹だ。器量がよくて、歌が好きな子で、笑うと頬に窪みができて」
老婆の目が、遠くを向いた。囲炉裏の向こう、壁の一点を見ているようで、実際にはもっとずっと遠いところを見ているような目だった。
「ある朝、あの子が言ったんだよ。夢を見たって。きれいな花嫁衣裳を着た女の人が出てきて、何かを言うんだけど声が聞こえないって。三日続いて、四日目の朝に、仏間の人形が動いた形跡があった」
「動いた、というのは」
「向きが変わっていた。わたしたちが寝床に入った夜、東を向いていたものが、朝には北を向いていた。北は……秋枝の寝ている部屋の方角だった」
朔は手帳を取り出したが、何も書けなかった。ただその言葉を、音として体の中に受け止めることしかできなかった。
「それで、あなたは止めようとした」
「止めようとした」
志津は繰り返した。どこか機械的に。
「人形を壊そうとした。夜中に仏間に忍び込んで、縁側から外に持ち出して、裏の斜面に投げた。雪の深い夜でな、音もなく沈んでいった。これで終わりだと思った」
「でも終わらなかった」
「朝になったら、仏間にあった」
静寂が落ちた。囲炉裏の炭が、かすかに爆ぜた。
「秋枝は」と朔は聞いた。「どうなりましたか」
志津は答えなかった。ただ火箸を置いて、両手を膝の上で重ね、目を伏せた。その沈黙は、どんな言葉よりも明確に何かを語っていた。
「……なぜ止めてはいけないのか」
朔は声を絞った。「それだけ教えてください。止めようとすると何が起きるのか。なぜこの村の人間は、誰も逆らおうとしないのか」
志津は顔を上げなかった。
「それは」
ひどく低い声だった。
「言えない」
「なぜですか」
「言えない理由がある」
「それが知りたいんです」
「知ってどうする」朔を見た。老婆の目は、炉の火を映して揺れていた。「止めたいと思っているんだろう。綾部の娘を助けたいと。だが、わたしが止めようとして何になった。秋枝は———」
声が詰まった。志津は一度目を閉じ、また開いた。
「村の者が言うことには耳を貸すな。透のことも。だが」
「だが?」
「人形の選んだことには、理由がある。百年のあいだ、この村がなぜ続いてきたか。人形がなぜこの村を選び続けているか。その意味を知らないままで手を出すと、あんたは……」
また止まった。今度は長かった。
朔は待った。雪が窓の外で風に舞い、板壁を叩く音がした。
「あんたは、自分が何者か知っているか」
志津が突然、話を変えた。
「自分が何者か」朔は眉を寄せた。「どういう意味ですか」
「白瀬、という名だ」
「ええ」
「この村に、むかし白瀬という一族がいた。今はもういない。村を出て、どこかへ散り散りになった一族だ。お前さんに、この村に繋がりはないか」
心臓が、一拍分ずれた気がした。
朔は幼い頃から、自分の家族について知らないことが多かった。父親の実家の話になると、母親が話題を変えることを知っていた。父は早くに死に、その出自を詳しく語ってくれる者は誰もいなかった。
「……わかりません」
正直に言った。「父の実家については、ほとんど何も知らない」
志津はじっと朔を見た。しばらくして、何かを確かめるように小さくうなずいた。
「そうか」
「なぜそれを」
「あんたの目だ」志津は言った。「この村の古い人間と、同じ目をしている。それと———あんたが赴任してきたと聞いた時から、気になっていた。白瀬という名が、この村に戻ってきたことが」
返す言葉が見つからなかった。朔はただ、囲炉裏の火を見つめた。炎は静かに揺れ続け、影を壁に踊らせていた。
やがて志津が、重い息をついた。
「……花嫁布を解く方法は、ある」
朔は顔を上げた。
「まだ儀式の本番まで時間はある。だが知っておきなさい。解こうとすれば、人形はお前さんに目を向ける。次に選ばれるのは、その娘ではなくなる」
「次に選ばれるのは、誰になるんですか」
志津は答えなかった。ただ火を見つめて、口を引き結んでいた。
その沈黙の意味を、朔はゆっくりと理解した。胃の底が冷えていく感覚があった。
「……わたしに、できることはありますか」
今度は別の聞き方をした。
志津は少し間を置いてから、初めて、ほんの少しだけ表情を動かした。眉の端が、かすかに下がった。それが憐れみなのか、諦めなのか、朔にはわからなかった。
「次に来る時は、夜に来なさい」
老婆は言った。「昼間は目がある。透の目が」
「来ていいんですか」
「来るな、と言っても来るだろう」
それが、志津の精一杯の答えだった。
朔は頭を下げ、立ち上がった。板間に足をつけると、床が軋んだ。
引き戸を開けると、外は白く染まっていた。雪は勢いを増しており、来た時についた足跡は、すでに半ば埋まりかけていた。振り返ると、志津は囲炉裏の前から動かず、こちらを見ていた。
「一つだけ」
朔は戸口から言った。「秋枝さんは、今、どこにいますか」
老婆は答えなかった。
ただ、その目が、一瞬だけ仏壇の方を向いた。
それだけで、十分だった。
朔は雪の中へ踏み出した。後ろで引き戸が閉まる音がした。頭の中で、志津の声が繰り返されていた。
——白瀬という一族が、この村にいた。
足跡を踏みしめながら、朔は父親の顔を思い出そうとした。幼い頃の記憶の中の、ぼやけた輪郭。そして母が決して話そうとしなかった、父の生まれた土地の話。
雪が顔を打った。
自分がこの村に呼ばれたのか、それとも偶然ここへ来たのか。その問いが、初めて本当の重さを持って、朔の胸に落ちてきた。