秋の夜気は冷たく、石畳の上にひっそりと月影を落としていた。
柊屋の裏庭に立つ土蔵は、昼間よりもずっと重く、黒く、息を潜めているように見えた。白漆喰の壁が月光を鈍く照り返し、その輪郭だけが浮かび上がっている。澄乃は足音を殺しながら、石段のそばまで近づいた。
来るつもりはなかった。
ただ、今夜は眠れなかった。糸から言いつけられた反物の棚卸しを終えたのは夜半を過ぎた頃で、疲れているはずなのに瞼が下りてこない。薄い布団の上で寝返りを打ちながら、気づけば足が廊下へ向かっていた。奉公人の部屋から裏庭までは、慣れれば十の息で歩ける。
今夜は月命日だと、お春が昼間に言っていた。
――蔵は一郎様が月命日にだけ訪れる場所だ、と。
澄乃は土蔵の扉をただ眺めていた。近寄る気はなかった。せめてこの目で確かめたかっただけだ。蔵に何かある、という確信が胸の底でじっとしていて、それが静かに熱を持ち始めていた。
鉄の錠前が、月に光っている。
そのとき、玉砂利を踏む音が背後からした。
澄乃は息を止めた。振り返ることができなかった。足音は一つ、二つ、確かな重さで近づいてくる。男の歩き方だった。静かだが、迷いがない。
「……誰だ」
低い声が夜気を割った。澄乃はゆっくりと振り返った。
柊一郎が立っていた。
黒羽二重の着物を纏い、手に小さな角灯を提げている。いつもの洋装ではなかった。燈火が風に揺れるたびに、その横顔の陰影が変わる。目は鋭かったが、怒りの色ではなかった。何かを確かめるような、探るような光が、その奥にあった。
澄乃は頭を深く下げた。
「申し訳ございません。眠れなくて、つい庭に出てしまいました」
嘘ではなかった。けれど全てでもなかった。一郎はしばらく黙っていた。
澄乃は顔を上げられなかった。糸に告げ口をされる、叱責を受ける、あるいは即刻奉公を解かれる。最悪の場合を頭の中で並べながら、それでも体が震えないのは、覚悟というより意地だったかもしれない。
沈黙が長かった。
あまりに長いから、澄乃はそっと顔を上げた。
一郎が、じっとこちらを見ていた。
角灯の光の中で、その表情は奇妙だった。怒りでも困惑でもなく、まるで何か遠いものを見るような目をしていた。唇が微かに動いて、それからまた閉じた。もう一度、澄乃の顔をなぞるように見て、
「……なぜそんな顔をしている」
と、呟いた。
澄乃には意味がわからなかった。
「は、」と声が出た。「顔、と申しますと」
一郎は答えなかった。ただ、また澄乃の顔を見た。今度はもっと長く。燈火が揺れるたびに影と光が入れ替わり、その視線の重さだけが変わらずにそこにある。澄乃は居心地の悪さと、それとは別の、うまく名のつけられない感覚を同時に覚えていた。見られている、というより、重ねられているような。自分ではない何かに、重ねられているような。
一郎は唐突に視線を外した。
錠前を取り出し、土蔵の扉を開けた。暗い内側から、古い木と、それから何か甘いような、かすかに麝香に似た匂いがした。一郎は振り返らないまま言った。
「もう戻れ。夜風は体に障る」
それだけだった。
扉が内側から引かれ、重い音を立てて閉まった。錠前がかけられる音がした。澄乃はしばらくその場に立ち尽くし、それから踵を返した。
足元の玉砂利が、冷たく、白く、月の光を受けていた。
部屋に戻っても、やはり眠れなかった。
一郎の言葉が、耳の奥で繰り返されていた。なぜそんな顔をしている。澄乃は自分の顔に手を当ててみた。暗がりの中では何も見えない。自分の顔がどう映ったのか、皆目わからなかった。悲しそうに見えたのか、それとも何か別の何かに見えたのか。
あの目は、何を見ていたのだろう。
問いを抱えたまま、いつの間にか意識が薄れていった。
*
夢の中は、いつも同じ色をしていた。
橙とも紅ともつかない、暮れなずむ光の中に、澄乃は立っている。どこかの縁側だった。広い庭があり、白い石が点在し、苔が深く茂っている。公家屋敷の様式だが、澄乃の生家とは違う。もっと古い、もっと深い場所のような気がした。
少し先に、後ろ向きに座っている女がいた。
朱色の打掛。黒髪は重く結い上げられ、首筋が白い。澄乃が一歩踏み出すと、女はゆっくりと振り返った。
朱乃だった。
夢の中では何度も見た顔だ。けれど今夜はいつもより顔の輪郭が鮮明だった。瞳の色が、燈火のように揺れている。
「澄乃」
声は遠く、しかし確かに届いた。
「もう少し」
澄乃は一歩踏み出した。「もう少し、とは」
朱乃は微笑んだ。口元だけが動いて、音にはならない言葉を作っているようだった。それでも意味だけが、水が滲みるように伝わってくる。
――もう少しで、届く。
澄乃は問い返そうとした。何が届くのか。誰に、何が。しかし夢の中の言葉は思うように形にならない。もどかしさの中で、朱乃はただ微笑み続けていた。悲しみの色がある笑顔だった。長い長い時間を待ち続けてきた者の、その疲弊と安堵が混ざり合ったような表情だった。
打掛の裾が、風もないのにふわりと揺れた。
そのとき、朱乃の背後に何かが見えた。暗がりの中に、小さな人形が座っている。花嫁姿の人形だった。白無垢を纏い、綿帽子を被り、両手を膝の上に置いている。人形の顔が、遠くてよく見えない。澄乃は目を細めた。
人形の顔が、朱乃に似ていた。
いや、違う。
澄乃は息を呑んだ。
人形の顔は、澄乃自身に似ていた。
夢が揺れた。朱乃の輪郭が霞み始めた。澄乃は手を伸ばしたが、指先が空気を掴んだだけだった。朱乃は遠ざかりながら、最後にもう一度、唇を動かした。
音にならない言葉。
けれどその意味だけが、胸の奥に落ちてきた。
――あの蔵の中に、私はいる。
目が覚めたのは、夜明け前だった。
障子の向こうがまだ青暗い。澄乃は布団の上に起き上がり、両手で自分の顔を覆った。動悸が静まらなかった。夢の輪郭はもう薄れていたが、朱乃の言葉だけが鮮明に残っていた。
あの蔵の中に、私はいる。
蔵に何かある、という確信は今や疑いの余地がなかった。そして一郎がただ一人、月命日にだけそこを訪れるという事実が、新たな問いとして澄乃の胸に刺さった。一郎は知っているのだろうか。蔵の中に何があるかを。そして、なぜあの人は、あんな目で澄乃の顔を見たのか。
なぜそんな顔をしている。
あの問いは澄乃に向けられたのではなかったかもしれない、と今になって思う。あれは独り言に近かった。まるで夢うつつの中で口をついて出たような、制御されない言葉だった。
一郎は蔵の中の何かを、澄乃の顔と重ねたのだ。
澄乃はゆっくりと手を下ろした。朝の冷気が、首筋に触れた。
蔵の中に、花嫁人形があるのかもしれない。そして朱乃はその中に宿っている。そして一郎は、それを知っている。
全てがまだ霧の中にある。けれど霧は確かに、少しずつ薄れていた。
澄乃は立ち上がり、着物の衿を正した。
窓の外、夜明けの空がほんのわずかに白み始めていた。今日もお糸からの雑務が積まれているだろう。それでも澄乃の足取りは、昨日より確かだった。たどり着くべき場所が、一夜のうちに少しだけ近づいた気がした。
朱乃の声が、まだ耳の奥で揺れていた。
もう少し、と。