夢の中は、血の匂いがした。
甘く、腐りかけた梅のような、それでいて鉄の鋭さを帯びた香りが鼻腔を満たし、澄乃は気がつけば見知らぬ廊下に立っていた。板張りの廊下は艶を失い、あちこちに苔が這っている。天井からは染みが広がり、雨漏りの痕か、あるいは別の何かが滲んだのか、判然としなかった。
灯りは、どこにもない。
それでも廊下の先が見えるのは、月明かりのせいではなく、廊下の奥に立つ女が、ぼんやりと光を帯びていたからだ。
白無垢だった。
裾を引きずり、頭には綿帽子を被り、その女は澄乃へ向かって静かに立っていた。顔は見えない。綿帽子の白が、闇の中で紙燈籠のように揺れている。
澄乃は、逃げなかった。逃げようという気が、不思議と湧かなかった。代わりに胸の奥から、古い和歌の一節がひとりでに浮かび上がってくる。
――結びおきし契りは今も絶えねども、いかにせん、この世の縁の細さよ。
女が一歩、こちらへ踏み出した。
綿帽子の下から覗く顔は、思いのほか若かった。二十歳そこらであろうか。澄乃が今の己と重ねれば、ちょうど同じくらいの年頃に見えた。その顔に見覚えがある、とは言い難い。それなのに、目が合った瞬間、澄乃の喉の奥で何かがきつく絡まる感覚があった。
「繰り返される」
声は、唇から出ているのではなかった。耳ではなく、頭の内側に直接響く感じがした。
「誓いを解かなければ、また繰り返される」
澄乃は口を開こうとした。あなたは誰か、と問おうとした。しかし唇は縫いつけられたように動かず、ただ女の目だけが澄乃を捉え続けた。
瞳は黒く、深く、その奥にわずかな光が瞬いている。燃え尽きかけた蝋燭の最後の炎のような、それでいて消えることを拒んでいるような光だった。
「朱乃、と申します」
今度は確かに、声として聞こえた。
その名を聞いた瞬間、澄乃の背骨を冷たいものが走り抜けた。知っている。知っているのに、どこで聞いたのかがわからない。夢の中とは別の場所で、何度もその名を見聞きしてきた気がした。哲三の話の中で、古い文書の中で、そして蔵の奥の人形の首筋に刻まれた細い文字の中で。
「解いてください」
朱乃が言った。手を伸ばしてくる。白く細い指が、澄乃の袖をかすかに触れた。触れた場所が、氷のように冷たかった。
「でないと、またふたりが、引き裂かれる」
廊下の板が、足元から腐り崩れていく。朱乃の姿が遠ざかる。月がない。灯りがない。ただ朱乃の白だけが遠のいて、やがて澄乃は完全な闇の底へ落ちた。
*
目が覚めると、寝汗で襦袢が肌に張りついていた。
天井がある。畳の匂いがする。見慣れた奉公部屋の梁が、朝の薄明かりの中でぼんやりと浮かび上がっていた。
澄乃は上半身を起こし、しばらく荒い息を整えた。心の臓が喉元まで跳ね上がっているような感覚があり、指先が微かに震えていた。
「澄乃さん、どうされました」
隣の布団から、お春の声がした。
お春は呉服問屋の使用人仲間で、ふくよかな頬と人の好い目をした娘だ。澄乃より三つ年上で、奉公に上がった当初から何かと気にかけてくれる。その目が今、真剣な心配の色を帯びて澄乃を見つめていた。
「なんでもありません。少し、夢を見ただけです」
「怖い夢ですか。額に汗が」
お春が膝を進め、手拭いを差し出してくれる。澄乃はそれを受け取りながら、額を拭いた。布地に湿りが移る。夢の中の冷たさとは裏腹に、現実の己は熱いほどに汗をかいていた。
「繰り返される、と言っていました」
気づけば、口に出していた。お春が首を傾げる。
「繰り返される、とは」
「いいえ、独り言です。なんでもありません」
澄乃は首を振り、着替えの支度を始めた。しかし手が動かなかった。朱乃の声が、まだ耳の奥に残っている。あの廊下の血の匂いが、鼻腔の奥にこびりついている。
夢だとわかっている。それでも、夢ではないとも感じていた。
*
朝の廊下は、秋の光に満ちていた。
日差しが縁側から斜めに差し込み、廊下の板目に影の縞を作っている。柊屋の朝は早く、すでに奉公人たちは各々の仕事に散らばっていた。澄乃は膳の準備を終えて台所から廊下へ出たところで、向こうから歩いてくる人影に気がついた。
柊一郎だった。
書斎から来たのか、いつもは精緻に整えられた着物の衿が、今朝はわずかに乱れていた。澄乃がそれに気づいたのと同時に、一郎が澄乃の顔を見た。
止まった。
澄乃も、つい足を止めた。一郎の顔色が、普段よりずっと蒼かった。西洋の書物を読み耽って一晩を明かしたときのような青白さではなく、もっと深いところから血の気を引かせたような、そういう蒼さだった。目の下にうっすらと隈がある。
ふたりの間に、しばらく沈黙が落ちた。
廊下の外で、庭師が竹箒を動かす音がする。どこか遠くで、烏が鳴く。
一郎が口を開いた。
「昨夜、夢を見たか」
低く、静かな声だった。問うというより、確かめるような声音だった。
澄乃は、すぐには答えられなかった。一郎の目の中に、自分と同じものを見た気がしたからだ。恐怖ではない。それよりもっと根の深い、得体の知れない何かに触れたときの、あの感覚。
「……見ました」
答えると、一郎の目が僅かに揺れた。
「白い女が出たか」
澄乃の喉が、ひとりでに緊張した。
「白無垢を着た、若い女が」
一郎は答えない。ただ、澄乃から目を離さなかった。その沈黙が、答えだった。
「廊下に立っていました」と澄乃は続けた。「あなたのほうは」
「蔵の中だった」一郎は短く言った。「あの蔵だ。昨夜、おまえと石畳の家紋を見た、あの蔵の中に、女がいた」
澄乃は息を呑んだ。場所が違う。それでも、女は同じだったのではないか。その確信が、根拠もなく胸のうちに広がった。
「何か言いましたか」
「言った」
一郎は短く答えてから、わずかに目を伏せた。
「誓いを解け、と」
澄乃の手の中で、膳の椀が微かに鳴った。指先が震えていた。一郎は、それを見ていた。見ていながら、何も言わなかった。代わりに、一郎がゆっくりと廊下の壁へ視線を向ける。
「同じだったか」
「同じ、です」
声が、思いのほか小さく出た。澄乃は膳を縁側の框に置き、一度深く息を吸った。
「朱乃、という名を名乗りました」
一郎が、今度こそはっきりと動いた。澄乃の方へ半歩、踏み出す。
「その名を知っているか」
「知っています。人形の話をするとき、哲三さんが」
「俺も知っている」
一郎の声が、珍しく掠れていた。掠れを隠すように、一郎は一度だけ咳払いをする。
「先代が遺した書状に、一度だけ出てきた。ただの伝説だと思っていた」
伝説。澄乃は心の中でその言葉を繰り返した。昨夜の夢の中で触れた冷たさは、伝説ではなかった。血の匂いは、伝説ではなかった。朱乃の目の奥に燃えていたあの光は、決して伝説などではなかった。
「一郎さん」
自然と、名前が出た。いつもは「旦那様」と呼ぶ。奉公人として呼ぶべき言葉がある。それをうっかり越えてしまったことに気づいたのは、一郎の目が僅かに細まったときだった。
「申し訳ありません、失礼を」
「構わない」
一郎は静かに言った。とがめる気配は少しもなかった。むしろ、ふっと何かが和らいだような、そういう目をした。
「今夜、哲三に来てもらう。古地図だけでは足りない。もっと調べなければならないことがある」
「はい」
「それと、澄乃」
今度は、一郎の方から名を呼んだ。澄乃は思わず目を上げた。一郎は澄乃を真っ直ぐ見ていた。
「おまえは何か、隠している」
静かな、断定だった。問いでも詰問でもなく、ただ事実として告げるような。澄乃は何も言えなかった。一郎は続ける。
「今は問わない。だが、いつかは話せ。話さなければならないときが来る」
それだけ言って、一郎は廊下を歩き去った。
澄乃は、しばらく動けなかった。一郎の背中が角を曲がって消えてから、ようやく息をつく。
縁側の外で、秋の朝日が庭に降り注いでいる。菊の花が、風もないのに小さく揺れた。
誓いを解かなければ、また繰り返される。
朱乃の声が、まだそこにある気がした。そして澄乃には今、ひとつだけわかることがあった。
夢は、もう澄乃だけのものではなくなった。