蔵の中は、昼なお薄暗い。
外の往来から人力車の音が遠く届いてくるのを、澄乃はぼんやりと聞いていた。石畳の一枚が外されたまま、廻廊への入り口は黒い口を開けている。崩落した奥の闇が何かを飲み込んだまま百年を過ごしたように、じっとそこにある。
哲三が風呂敷包みを抱えて蔵に入ってきたのは、午後の光が傾きかけた頃だった。
「待たせました」
額に汗を滲ませながら、彼は包みを石畳の上に下ろした。結び目を解くと、中から和綴じの書物や反故紙の束が溢れ出た。墨の古い匂いが澄乃の鼻を打った。
「これが、資料ですか」
「幕末から明治初期にかけての民俗調査の記録です。私の師の師——つまり祖師匠とでも言うべき方が、京の各所を歩いて書き留めたもの。花嫁人形に関する記述が、三箇所あります」
哲三は丁寧な手つきで紙の束を繰った。細かい楷書が縦横に走り、余白には筆で図が描き込まれている。
「まずここを」
彼が指さした箇所を、澄乃は覗き込んだ。
——西陣某問屋ノ蔵ニ、花嫁ノ姿ニ拵ヘタル人形アリ。主人曰ク、百年前ヨリ伝ワリ、代々ノ当主ガ其レヲ婚礼ノ間ニ飾ルコト定メラレタリ。人形ノ顔ハ、或ル公家ノ姫ニ似タリトモ伝フ——
読み終えた澄乃の背に、冷たいものが走った。
「柊屋のことですか」
「名は伏せてありますが、他に該当する問屋を私は知らない。書かれた年は明治十八年。祖師匠が直接主人から聞き書きしたとあります」
一郎が無言のまま、その記述を自分の目でも確かめた。彼の指が紙の端をそっと押さえる。長い沈黙が落ちた。
「続きを」と、彼は短く言った。
哲三は次の資料を広げた。今度は反故紙に書かれた走り書きで、墨が滲んで読みにくい。
「これは同じ方の私的な覚書です。刊行されたものではない。花嫁人形について調べるうち、似た事例が西陣の外にもあると気づいて書き留めた、らしい」
——花嫁ノ形ヲシタ人形ニ魂ガ宿ルトイフ話、各所ニ散見ス。概ネ共通スルハ、婚礼ヲ果タサズシテ逝キタル女ノ念、或ハ、婚礼ヲ誓ヒナガラ相手ヲ失ヒシ者ノ念ガ形ヲ結ブトイフコト也。念ハ周期ヲ持ツ。百年ト書ク者アリ、七代ト書ク者アリ——
澄乃は息を飲んだ。
「百年、周期」
「そうです」哲三の声に、抑えた興奮が混じった。「そして三つ目がこれです。これは先ほどの二つとは別の文書で、私が去年、下鴨の古書肆で見つけたもの。幕末の動乱期に書かれた覚書で、著者は不明です」
広げられた紙は、茶けて端が欠けていた。しかし中央の文字は辛うじて読める。
——藤ノ花ノ紋ヲ持ツ姫、婚礼ノ前夜ニ消ユ。柊ノ家ノ者、其ヲ待チ続ケ、人形ニ形見ノ衣ヲ纏ワセタリ。姫ノ名ハ朱乃。慶応三年秋ノコト——
静寂が、蔵を満たした。
澄乃は両の手が微かに震えているのを感じた。それを一郎が見ていないことを、かすかに祈った。
「慶応三年は」と、哲三が静かに言う。「大政奉還の年です。公家が激しく動いた時期。その混乱の中で——」
「朱乃が消えた」
澄乃が呟くように続けた。自分でも驚くほど、声が低く落ちた。
「澄乃さん」哲三が少し前のめりになった。「夢の話を、聞かせてもらえますか。以前、朱乃と名乗る女が夢に現れると言っていた。今日まで見た夢の、細部を教えてください」
澄乃は一瞬迷った。夢の中のことを人に話すのは、何か大切なものを手放すような気がして、ずっと躊躇っていた。しかし今は違う。この資料の前では、夢は個人の内側に留めておくものではなく、何か大きな謎の一部なのだと思えた。
「花嫁衣装を着た女です。顔がはっきり見えないことが多い。でも声は聞こえる。和歌を、詠むんです」
「どんな」
澄乃は目を閉じた。夢の中の声が、今も耳の奥に残っている。
「——逢ふと見て 手にも触れねば 春の夜の 夢こそ夢の 夢にありけれ——でした。最初の夢で。その後の夢では、少しずつ違う。でも共通しているのは、何かを待っているということ。誰かをずっと待って、その誰かが来ないことを嘆いている」
哲三は手元に何かを書き付けながら、深く頷いた。
「和歌の出典は後拾遺集ですね。『逢うと見たが、手にも触れられなかった。春の夜の夢ですら、夢の中の夢であった』——つまり会えぬままの嘆き」
「そうです」
「澄乃さん」哲三は顔を上げ、まっすぐに彼女を見た。「これを聞いて、どう思いますか。百年前、朱乃は婚礼の前夜に消えた。柊家の先代は誓いを果たせなかった。その未練が——念が——人形に宿った。そして百年の後、似た顔の女が柊家に現れる」
沈黙。
「その女が、現れるたびに」澄乃は自分の声を聞いた。他人事のような、乾いた声だった。「呪いが繰り返される、ということですか」
「繰り返されてきた、かもしれない。今回が初めてとは限らない。百年というのは、あくまで文書に記録された最初の話。その前にも、周期があった可能性がある」
一郎が、ずっと黙っていた。壁に背を預けて腕を組み、目を伏せていた彼が初めて口を開いた。
「呪いが繰り返されるとして、その結末は」
哲三がわずかに言いよどんだ。澄乃はその一瞬の間に、答えを予感した。
「記録が残っているものは多くない。ただ——覚書に、こうあります。『似タル顔ノ女、長ク柊ノ家ニハ居リエズ』と」
長くは、居られない。
言葉が、澄乃の胸の中でゆっくりと沈んでいった。沈みながら形を変えて、恐怖になった。これまで呪いというものを、どこか外側の話として聞いていたように思う。百年前の話、先祖の話、解かれるべき謎——そういう形で捉えていた。しかし今この瞬間、輪郭が変わった。
これは、自分の話だ。
自分は朱乃に似た顔を持つ女として、柊家に奉公に来た。廻廊には藤原家と柊家の紋が並んでいた。夢の中で朱乃は自分に語りかけてくる。そして百年前の朱乃がそうであったように——
「わたしが」
声が出た。思っていたより小さかった。
「わたしが、百年後の朱乃ということですか」
哲三は答えなかった。しかしその沈黙が、答えだった。
蔵の外で風が鳴った。晩秋の乾いた風が軒先を揺すり、どこかで雨戸が一枚、かたりと音を立てた。
澄乃は人形を見た。奥の棚に座らせたままの花嫁人形が、薄い光の中でこちらを見ている。その顔は自分に似ていると言われてきた。最初に見た時は信じられなかった。今は——見つめ返すと、息が詰まるような気がした。
百年前、あなたは何を思いながら人形に宿ったのか。
澄乃は心の中で問いかけた。答えは返らない。でも夢の中ではきっと、また声が届く。
「一つ、聞いてもいいですか」
哲三に向けて、澄乃は口を開いた。
「呪いというのは——解けるものですか。百年繰り返されてきたなら、百年ごとに呪いを解く機会があったはずです。それでも続いているということは」
「解けなかった、ということです」哲三は正直に言った。「どうすれば解けるか、私はまだわからない。ただ——廻廊に刻まれた『誓約』の文字が、鍵になるかもしれない。誓いが果たされなかったから呪いが生まれたなら、誓いが果たされた時に、呪いは終わる」
誓いが、果たされた時。
澄乃は一郎を見た。彼もまた、澄乃を見ていた。互いの目が合った瞬間、澄乃は視線を逸らした。
胸の奥で、何かが疼く。それが恐怖なのか、別の何かなのか、澄乃にはまだわからなかった。ただ確かなことは一つ——自分はもう、この呪いの外側に立っていない。
蔵の闇の中で、花嫁人形はただ微笑んでいた。