夜が深く澱んでいた。
書斎の燈台はすでに油が半ば尽きかけており、その炎は息をするように揺れては静まりを繰り返していた。澄乃はそのちいさな光の前に立ち尽くしたまま、自らが吐いた言葉の残響を聴いていた。没落した公家の娘であること。素性を隠して奉公に上がったこと。朱乃の誓いの残滓を胸に抱えたまま、この屋敷に足を踏み入れたこと——。
すべてを告げてしまった。
一郎は文机の縁に指先を置き、澄乃とは正面から向き合わず、やや斜めに視線を落としていた。沈黙が長かった。部屋の外では秋の虫が一匹、消え入りそうな声で鳴いていた。澄乃はその沈黙を数えるように待った。咎められるのであれば甘んじて受けようと、背筋だけはまっすぐに保って。
一郎がようやく口を開いたのは、虫の声もとだえた頃のことだった。
「……知っていた」
低く、静かな声だった。
澄乃は息を呑んだ。
「え、」
「知っていた、と言った」
一郎は顔を上げ、澄乃を見た。燈火の揺れが、その瞳に映って小刻みに揺れた。感情の読めない目だと澄乃はいつも思っていたが、今夜のそれはどこか違った。ひどく静かで、しかし底のほうで何かが凪いでいるような——そういう目だった。
「いつから、でございますか」
澄乃は声を低く保った。狼狽えていると悟られたくなかった。しかし唇は微かに震えていた。
「最初に和歌を諳んじたとき」
一郎はそう言って、文机の上に伏せてあった冊子を指先で軽く叩いた。
「坂上是則の一首だった。奉公に上がって三日目の朝、お前が庭の霜を見ながら口のうちで唱えていた。普通の奉公人が知っている歌ではない。それだけならまだ、ものずきな娘かとも思えた。だが所作が違った。箸の持ち方、お辞儀の角度、それから——畳の縁を踏まぬ気遣い。叩き込まれた躾は、育ちを隠さない」
澄乃はしばらく言葉が出なかった。
自分では気をつけていたつもりだった。奉公人らしく振る舞おうと、訛りまで研究して、粗末な綿着物に慣れようとして。それでも。
「……では、ずっと」
「ずっと」
一郎は短く繰り返した。
「公家の末裔だろうと見当をつけたのは半月ほど経った頃だ。藤原の傍流かどうかまではわからなかったが、素性を隠しているのは確かだと判断した」
澄乃はゆっくりと膝を折り、畳に手をついた。
「お咎めのなかったことを、お詫び申し上げるべきか、御礼申し上げるべきか、判じかねております」
「どちらもいらない」
一郎の声は淡かった。
「お前が嘘をついていたとは思っていない。ただ告げなかっただけだ。それはお前の事情であって、俺が踏み込む域ではない」
澄乃は顔を上げた。
踏み込む域ではない、とこの人は言った。澄乃の隠し事を知りながら、それを暴かず、ただ側に置き続けた。なぜ。理由を問おうとして、澄乃は言葉を喉の手前で止めた。一郎の横顔が、その問いを退けるように、ほんの少し窓の外へ向いたからだ。
「一つだけ訊いてもよろしいでしょうか」
「言え」
「なぜ、おそばに置いてくださったのですか」
沈黙が来た。
先ほどとは違う沈黙だった。先ほどのそれは考えるための静けさだったが、今のこれは——何かを告げることを拒む壁のような、そういう重さがあった。
一郎は答えなかった。
燈台の油がかすかに爆ぜた。
「……」
澄乃は待った。しかし一郎は文机に視線を戻し、そこに置いた冊子の背を指でなぞるだけだった。口を開く気配がない。
解雇しなかった理由を、この人は告げない。
それが答えだと澄乃は悟った。
少なくとも今夜は、告げるつもりがないのだと。
「承知しました」
澄乃は静かに言った。責めるつもりはなかった。一郎が問いに答えぬ権利があるように、澄乃もまた素性を隠す時間があったのだ。お互い様だと思った。思おうとした。
しかし胸の奥にわだかまるものは消えなかった。
一郎が澄乃の素性を知りながら側に置き続けた理由。それは単なる合理的な判断だったのだろうか。奉公人として有用だから、或いは素性を知られた者を野に放つよりそばで目の届く場所に置くほうが得策だから——そういう計算だったのだろうか。
この人がそういう計算をする人間だということは、澄乃も知っていた。知っていた、はずだった。
それでも。
澄乃は今一度、一郎の横顔を見た。燈火の光の中に、その輪郭がひっそりと浮かんでいた。西洋の合理を纏い、感情を外へ出すことを知らないこの青年が、なぜかこの夜だけは少し違って見えた。声が低かった。瞳の底が静かだった。それが何を意味するのか、澄乃にはまだわからない。
「では今宵はこれにて。お休みなさいませ」
澄乃は頭を下げ、立ち上がろうとした。
「待て」
一郎の声が、静かに引き止めた。
澄乃は動きを止めた。
「朱乃のことを、お前はどこまで知っている」
それは問いというより、確認のような声だった。
「夢の中で言葉を届けてくださいます。断片的に、ですが」
「その言葉の内容は」
「誓いのこと。廻廊のこと。そして——果たされなかった何かのこと」
一郎はしばらく黙っていた。
「廻廊を、お前はすでに知っている」
「はい」
「哲三から聞いたか」
「はい」
また沈黙。しかし今度のそれは短かった。
「明後日、俺と来い」
澄乃は目を瞬いた。
「廻廊へ、ということでしょうか」
「そうだ。お前に見せたいものがある」
それだけ言うと、一郎は再び冊子へ視線を落とした。話は終わりだという合図だった。
澄乃は頭を下げ、書斎を出た。
廊下は暗く、足元だけが行燈の灯りで薄く照らされていた。澄乃は自室へ戻りながら、先ほどの問いを反芻していた。
なぜ、おそばに置いてくださったのですか。
一郎は答えなかった。
それが澄乃には、どうしても頭から離れなかった。知っていて、それでも。知っていて、なお。公家の末裔を、素性を隠した娘を、この大きな屋敷の奥に留め置いたのはなぜなのか。
答えを持たないまま、澄乃は自室の布団に身を横たえた。
天井を見つめると、古い木目が闇の中にぼんやりと浮かんだ。
——知っていた、とあの人は言った。
ならばあの人もまた、何かを隠している。
澄乃はそう思った。自分が素性を隠していたように、一郎もまた、何かを——おそらくは最も肝心な何かを——胸の底に押し込めたままでいる。
廻廊へ来いと言った。
見せたいものがある、と。
その言葉が夜の中に沈んでいくのを聴きながら、澄乃はいつしか浅い眠りに落ちた。
夢の中に、朱乃はいなかった。
ただ、白い花びらが一枚、暗い水の面を静かに流れていくだけだった。
どこへ向かうのかも知れないまま、それはゆっくりと、確かな速さで流れていった。