朝から空が重かった。

 西陣の路地に立ちこめる雨の匂いを、澄乃は配達の荷を抱えながら胸の奥に吸い込んだ。湿った石畳、濡れた木塀、軒先に揺れる暖簾。明治の世になっても、この町の骨格だけは変わらない。水を含んだ空気が、どこか古い記憶の底を撫でるようで、澄乃はふと足を止めた。

 昨夜の夢の残像が、まだ瞼の裏にある。

 朱乃——という名の影が、白い衣を引きながら澄乃の夢の縁に立っていた。言葉はなかった。ただ振り返る素振りだけを見せて、次の瞬間には霧に溶けてしまった。起き抜けに澄乃は無意識に和歌の一節を口ずさんでいた。*春の夜の 夢ばかりなる手枕に かひなく立たむ 名こそ惜しけれ*。誰に教わったわけでもない歌が、喉の奥から湧いて出る。この癖が始まったのは、いつからだったか。

 「澄乃さん、急ぎなはれや。雨雲、どんどん来てますえ」

 背後から、同じ奉公仲間の声が飛んできた。澄乃は我に返り、「はい、ただいま」と応えて再び足を動かした。

 柊屋から五町ほど離れた染屋への配達は、手間のかかる仕事ではなかった。反物を包んだ風呂敷を慎重に抱え直し、澄乃は細い路地を縫うように歩いた。空はしだいに色を失い、最初の雨粒が石畳を叩き始めたのは、染屋の暖簾をくぐって間もなくのことだった。

 帰り道に入ったころには、雨は本降りになっていた。

 借りた傘は小ぶりで、着物の裾がたちまち濡れそぼつ。西陣を南北に貫く小川に差し掛かったとき、澄乃は聞き慣れない音に足を止めた。

 水の音ではない。子どもの声だった。

 川べりを覗き込むと、増水した流れの中に小さな影が見えた。渡し板から滑り落ちたらしく、六つか七つほどの男の子が石につかまりながら必死に頭を水面から持ち上げている。傍らには誰もいない。大人の姿は路地の向こうに遠く、雨音が叫び声をかき消していた。

 澄乃は傘を投げた。

 土手を駆け下りる間、頭の中は妙に静かだった。迷いも恐れも、不思議なほど遅れてやってくる。身体が先に動いていた。濡れた石に足を滑らせながら流れに踏み込み、腰まで冷水に浸かりながら子どもの腕を掴んだ。引き上げるときに自分の膝が岩に当たって痛みが走ったが、それすら後から気づいた。

 「離したらあかんよ、しっかり掴まって」

 囁くように言いながら、澄乃は子どもを土手へと押し上げた。男の子はぐったりしながらも、必死に草を掴んでいた。澄乃も這い上がり、二人でしばらく荒い息をついた。

 「お父ちゃん……」

 男の子が泣き出した。澄乃は子どもの背を撫でながら、自分の有様を確認した。着物は腰から下がすっかり水を吸い、帯も型崩れしている。奉公人としての体裁は、もはや保てたものではない。

 *これは叱られる*、と思った。けれど次の瞬間には、*それでよい*、とも思った。子どもは生きている。それで足りた。

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 柊屋へ戻ったとき、澄乃の姿を見た番頭の顔が青ざめた。

 「澄乃さん、一体どないしはりました」

 事の次第を短く説明すると、番頭は腕組みして唸り、「とにかく着替えんとあきまへん、このままでは風邪をひかはる」と早足で奥へ向かった。しばらくして戻ってくるなり、「蔵の端に、奉公人用の仕着せが余っとったはずや」と言い、澄乃を蔵の方角へ案内した。

 柊屋の蔵は、表の通りから細い路地を抜けた奥に建っていた。白漆喰の壁に、鉄の扉。普段は澄乃が近づく機会のない場所だった。番頭は馴れた手つきで南京錠を外し、蔵の入口に澄乃を通した。

 「仕着せは入ってすぐ右手の棚にありますさかい、自分で探しておくれやす。わては旦那さんに報告してきます」

 そう言って番頭は去った。澄乃は一人、蔵の中に取り残された。

 冷えた空気が肌を包んだ。濡れた着物が重く、体の芯まで冷えている。けれど澄乃の手は、すぐには棚へ伸びなかった。

 蔵の内部は薄暗く、外の雨音が不思議なほど遠い。棚には反物や小道具の類が整然と並んでいるが、奥へ行くほど光が届かなくなる。入口近くの格子窓から差す灰色の空の光が、蔵の中ほどまでで尽きていた。

 仕着せを探しながら、澄乃の目は自然と奥へ向いた。

 蔵の最奥に、もう一枚の扉があった。

 古い木の扉で、他の什器とは明らかに年代が違う。板が黒ずみ、鉄の蝶番に錆が浮いている。閉まっているはずのそれが、今日に限って、ほんのわずかに開いていた。

 隙間は指一本分ほど。おそらく誰かが鍵をかけ忘れたか、木が湿気で膨らんで掛け金が甘くなっているのか。いずれにせよ、蔵の外の雨が蝶番を濡らしたのか、扉は微かに軋みながら僅かな暗がりを覗かせていた。

 澄乃の足が、吸い寄せられるように一歩踏み出した。

 理性が止める間もなかった。もう一歩。また一歩。冷えた石床の上を、濡れた足袋が音もなく進む。

 扉の隙間から、暗がりの中を目が慣れようとした。最初は何も見えなかった。ただ黒い空間だけがある。

 しかし、やがて。

 白が、あった。

 暗がりの中に、ほとんど形のないまま、しかし確かに白い輪郭が浮かんでいた。衣装の白さだと、直感した。人の形をした何かが、その白の中に座っているように見えた。動かない。息もしない。ただそこにある。

 *花嫁人形——*

 哲三の言葉が、耳の奥でよみがえった。*百年前に命を落としたとされる公家の姫*。*人形に宿るとも囁かれ*。

 背筋を冷気が這い上がった。濡れた着物の寒さとは違う、もっと深いところからくる震えだった。怖い、と思った。確かに怖かった。

 けれど同時に、澄乃の胸の奥に、もっと別の何かが灯った。

 引き寄せられる、という感覚。夢の中で朱乃の影を追うときと、同じ感覚。逃げなければならないのに、足が動かない。目が離せない。白い輪郭は微動だにせず、ただ澄乃を待っていたかのように、暗がりの中心に在り続けた。

 「——澄乃さん」

 不意に名を呼ばれて、澄乃は弾かれたように振り返った。

 蔵の入口に、柊一郎が立っていた。

 番頭から話を聞いたのか、あるいは偶然か。いつもの白シャツに細い縦縞の袴姿で、蔵の外の灰色の光を背に受け、一郎はまっすぐ澄乃を見ていた。その視線が、奥の扉に向いて、次に澄乃に戻った。

 一郎の表情が、一瞬だけ変わった。

 怒りではなかった。咎めでもなかった。それは——澄乃には正確に読めなかったが、どこか痛みに似た何かだった。扉を見た瞬間だけ、柊一郎という青年の纏う西洋的な鎧が、かすかにほつれたように見えた。

 「着替えは済みましたか」

 低く、静かな声だった。

 澄乃は答える言葉を探したが、唇が上手く動かなかった。濡れた着物の重さと、暗がりの白の残像と、一郎の視線が、一度に全部のしかかってくるようだった。

 「いいえ、まだ……」

 「では急いで。風邪をひく」

 それだけを言って、一郎は奥の扉に近づき、軋んだ蝶番を確かめるように指先で触れた。そして静かに、扉を閉めた。錠前がかちりと鳴った。

 白は消えた。

 しかし澄乃の胸の中では、その白い輪郭がいつまでも消えなかった。夢の中で翻る朱乃の衣と、今見た白とが、同じ一本の糸で繋がれているような、そんな確信だけが、冷えた身体の中心に静かに燃え続けていた。

春泥の誓いと、百年眠る花嫁

8

西陣の雨と、ほどけた糸

宵待 紬子

2026-05-21

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第8話 西陣の雨と、ほどけた糸 - 春泥の誓いと、百年眠る花嫁 | 福神漬出版