赤ペンで直された原稿用紙を見つめながら、田中は首を振った。
「また間違えてる。これじゃあ出版は無理だね」
編集者の声が冷たく響く。三度目の書き直しだった。
田中の小説は毎回、細かな部分で修正が入る。文章は悪くない。構成も問題ない。しかし必ず、登場人物の名前や設定に微妙な齟齬が生じるのだ。
「主人公の妻の名前が、途中で『美子』から『由美子』に変わってますよ」
編集者が赤ペンで囲んだ部分を指差す。
「あと、息子の年齢も八歳だったり十歳だったり。基本的な設定くらい統一してください」
田中は謝りながら原稿を受け取った。家に帰ると、すぐに修正作業にかかる。
しかし不思議なことに、書いている最中は確かに正しい名前を書いているつもりなのだ。『美子』と書いたはずなのに、気がつくと『由美子』になっている。
四度目の提出でも同じことが起きた。
「今度は主人公の職業が途中で変わってます。サラリーマンが急に教師になってる」
編集者の呆れ顔を見て、田中は頭を抱えた。
「すみません。どうしてこんなことが……」
「集中力の問題でしょうね。一度、医師に相談されては?」
その夜、田中は原稿を見直していた。確かに修正箇所がある。しかし自分で書いた記憶がない。
ふと、妻が茶を運んできた。
「お疲れさま。進んでる?」
「ああ、でも編集者にまた……」
田中が振り返ると、妻はもういなかった。いつものことだ。忙しい人なのだ。
翌朝、田中は愕然とした。昨夜書いた部分で、また設定が変わっている。主人公の息子が娘になっていた。
編集者に電話をかけた。
「実は、おかしなことが起きているんです。自分の記憶と原稿の内容が……」
「田中さん」編集者の声が優しくなった。「奥様は三年前に事故で亡くなってますよね。お子さんもいらっしゃらない。小説の設定が現実と混同してるのでは?」
電話を切った田中は、震える手で原稿を見つめた。
そこには赤ペンで書かれていた。「私たちのことを忘れないで」と。