田中部長の謝罪は、業界で伝説になっていた。
土下座の角度は正確に四十五度。額が床に触れる瞬間、かすかに目を閉じる。立ち上がりのタイミングは、相手の怒りのピークから三秒後。その精度は、職人の域に達していた。
「また謝ってきたんですか」
部下の木村が呆れた顔で言った。
「お客様に誠意が伝わればそれでいい」
田中はネクタイを締め直した。ひざに薄くついた白い粉を、さりげなく払いながら。
田中が謝罪の道を極めたのは、三十代のころだという。彼の師匠は、今は廃業した老舗百貨店の苦情処理係だった。「謝罪とは技術だ」と師匠は言った。「感情は邪魔になる」。
その教えを田中は忠実に守った。
謝罪の前には必ず準備をした。相手の出身地、趣味、家族構成。怒りのパターンを分類し、最適な謝罪の型を選ぶ。彼の手帳には、過去に謝った相手の名前と、使用した謝罪パターンの番号が、整然と並んでいた。
木村は一度、その手帳を盗み見たことがある。
びっしりと書き込まれた数字の列。そして最後のページに、一行だけ違う筆跡で書かれた文字があった。木村には読めなかった。逆さまだったから。
「部長、今日のクレームも完璧でしたね」
「まだまだだよ」
田中は首を振った。「相手が泣き始めるのが、二秒早すぎた」
木村は感心した。この人は本当に謝罪が好きなのだ、と思った。
翌月、田中は突然退職した。
送別会の席で、彼は珍しく酒を飲んだ。
「実はな、木村くん」
田中は静かに笑った。「私は一度も、心から申し訳ないと思ったことがないんだ」
木村は絶句した。
「だからこそ、技術を磨いた。謝罪とは相手のためじゃない」
田中はグラスを置いた。「自分が傷つかないための、鎧なんだよ」
木村は翌日、あの手帳の最後のページを思い出した。逆さまで読めなかった一行。
もしあれを鏡で見たら、何と書いてあったのだろう。
机の引き出しに、田中が忘れていった小さな鏡があった。