男の死体は、椅子に座ったまま微笑んでいた。
刑事の朝倉は、その微笑みが気になった。恐怖も苦悶もない。まるで冗談の落ちを待っているような顔だった。
「毒殺です」と鑑識の男が言った。「コーヒーに混入。死亡推定時刻は昨夜の十一時前後」
朝倉は部屋を見回した。応接間。二脚のソファ。テーブルには空のカップが二つ。
つまり、被害者は誰かと向かい合って座っていた。
容疑者はすぐに絞られた。被害者の秘書、田端という三十代の女だ。昨夜遅くに二人でいたことを、マンションの管理人が証言している。
田端は署の取調室で、落ち着いた声で話した。
「確かに伺いました。でも、私が帰ったのは十時半です。その時、先生はお元気でした」
「コーヒーは?」
「先生が淹れてくださいました。私は半分ほど飲んで、残しました」
朝倉は手帳を繰った。カップの一方には口紅の跡があった。もう一方にはない。被害者の男がつけるはずもない。
田端の証言と一致する。
だが朝倉には、ひっかかりがあった。
田端は最初から一度も、被害者の名前を口にしていない。「先生」とだけ呼ぶ。秘書として長く仕えた相手に対して、それは自然だろうか。
もう一つ。取調室に入ってきた時、田端はためらいなく朝倉の正面に座った。逃げ場のない席に、迷わず。
「田端さん」と朝倉は言った。「あなたが飲み残したコーヒー、どうして残したんですか」
田端は少し間を置いた。
「胃の調子が悪くて」
「昨夜だけですか、その症状は」
また間。今度は長かった。
「……何が言いたいんですか」
「カップに残った液体を分析しました」と朝倉は言った。「あなたが飲み残した方です。毒は入っていなかった」
田端の表情は変わらない。
「当然でしょう。私は被害者じゃない」
「ええ」と朝倉は頷いた。「でも不思議じゃないですか。二つのカップに同じコーヒーを注いだはずなのに、片方だけに毒が入っていた。それはつまり、誰かが一方のカップにだけ毒を垂らしたということです」
田端は黙っている。
「淹れたのは被害者だと、あなたは言った。でもカップを運んだのは? テーブルに置いたのは?」
沈黙。
「あなたは最初から正面に座るつもりだったんでしょう」と朝倉は続けた。「自分から見て遠い方のカップに毒を入れておけば、相手が自然にそちらへ手を伸ばす。角に置いた灰皿が、ちょうど近い方のカップを取りにくくしていた。私も現場で同じ位置に座って、試してみました」
田端はようやく、かすかに笑った。
「証明できますか」
「難しいですね」と朝倉は素直に言った。「だから今日、もう一人来てもらいました」
ドアが開いた。
入ってきたのは、昨夜の管理人だった。田端を見るなり、管理人は首を傾げた。
「あれ、でも昨夜エレベーターで会った方は……眼鏡をかけていましたよ。この方じゃない」
田端の顔から、笑みが消えた。
朝倉は手帳に何かを書き留めながら、静かに言った。
「被害者の部屋に眼鏡の処方箋は見つかりませんでした。あなたは?」