そのレストランには、客が一人もいなかった。
開店直後の午前十一時半、磨き上げられた床に光が溢れ、テーブルの上のグラスは息をするように輝いている。それなのに、誰もいない。
田所は恐る恐る扉を開けた。
グルメサイトの覆面レビュアーとして三年のキャリアを持つ彼が、今日ここへ来たのは仕事のためだ。口コミ評価は星ひとつ。しかしコメント欄には「一生に一度は行くべき店」という謎めいた投稿が一件だけあった。矛盾が彼の職業的好奇心を刺激した。
シェフが厨房から現れた。白衣は完璧に糊が効き、目は異様なほど穏やかだった。
「お一人ですか。では、おまかせコースを」
田所が何も言っていないのに、シェフはそう告げた。
料理は、確かに絶品だった。
前菜のカルパッチョは、まるで果物のように甘い。スープは飲む哲学と呼ぶべき複雑さで、田所は三口目でメモを取る手を止めた。メインの仔羊は、噛むたびに新しい味が生まれた。
田所はうっとりしながら、手帳の隅に小さく走り書きした。「星五つ」と。
デザートが運ばれてきたとき、シェフが静かに言った。
「気に入っていただけましたか」
「素晴らしい。なぜ客が来ないんですか」
シェフは微笑んだ。その笑みに、かすかな翳りがあった。
「レビュアーの方が来るのです。覆面の」
田所の手が止まった。
「そして皆さん、同じことをされます」
シェフはテーブルの引き出しから、一冊のノートを取り出した。
田所のものと、同じ表紙の手帳だった。
ページを開くと、無数の走り書きが並んでいた。筆跡はすべて違う。しかし書かれた言葉は、驚くほど一致していた。
「星五つ」「星五つ」「星五つ」——。
「皆さん、帰ってからレビューを書こうとされるのですが」シェフは言った。「どうしても書けないと、また来られるのです」
田所は首を傾けた。
「書けない? なぜ」
「言葉にした瞬間、何かが壊れる気がする、とおっしゃいます」
田所は自分の手帳を見た。「星五つ」の文字が、急に色あせて見えた。
帰り道、彼はスマートフォンを開いた。レビューの投稿画面を呼び出す。指がキーボードの上で止まった。
一分が過ぎた。五分が過ぎた。
結局、田所が投稿したのは星ひとつだった。
コメント欄には、こう書いた。「一生に一度は行くべき店」。