死体は、目を開けたまま笑っていた。
刑事の桐嶋は、被害者の顔を見つめながらメモを取った。室内に争った形跡はない。ドアに鍵はかかっていた。窓はすべて内側から施錠されている。
「発見したのはあなたですね」
桐嶋は部屋の隅に立つ男に振り返った。田宮という名の、被害者の隣人だ。五十がらみで、目の下に深い隈がある。
「ええ。朝から物音がしなくて、心配になったんです」
「物音、ですか」
「彼はいつも早起きで。コーヒーメーカーの音がするんですよ、壁越しに。それが今日は聞こえなかった」
なるほど、と桐嶋は思った。隣人の証言は細かい。細かすぎるほど。
死因は睡眠薬の過剰摂取。枕元には空の瓶があった。自殺か、他殺か。問題はそこだ。
「被害者と仲は良かったですか」
「まあ、普通に。廊下で会えば挨拶する程度です」
「最後に話したのは」
「三日前です。エレベーターで一緒になって」
桐嶋はもう一度、死体を見た。男は仰向けに倒れ、右手を胸の上に置いている。指先に、かすかな赤いものが付着していた。
「爪に何かついていますね」
田宮が一瞬、瞬きを止めた。ほんの一瞬だった。
「さあ。私には分かりません」
桐嶋は立ち上がり、窓の外を見た。隣のベランダまで、一メートルほどの距離だ。
「田宮さん、あなたの部屋はいくつですか」
「三〇四です」
「この部屋が三〇三だから、ちょうど隣ですね」
「そうです」
桐嶋はゆっくりと部屋を歩き回りながら、壁に目をやった。クリーム色の壁紙。そのうち一カ所だけ、ごくわずかに色が違う。最近塗り直したような、白みがかった四角い跡。
「田宮さん。一つ聞いていいですか」
「何でしょう」
「コーヒーメーカーの音が聞こえなかったとおっしゃいましたね」
「はい」
「壁越しに、ですか」
「ええ、壁越しに」
桐嶋はメモ帳を閉じた。
「この壁には、昨日まで穴が開いていたんじゃないですか」
田宮の顔から、表情が消えた。
死体の爪についた赤いものは、壁紙用のペンキだった。