被告席の男は、一度も私の目を見なかった。
私は陪審員席の端に座り、三日間、その横顔を観察し続けた。田中雄介、四十二歳。妻を殺したとして起訴されている。
検察側の証人は一人だけだった。隣室の住人、老婦人の松村。彼女は証言台で震える声を上げた。
「あの夜、確かに聞こえました。奥さんの悲鳴が」
弁護人が畳みかける。
「松村さん、あなたは事件当夜、補聴器を外していたのでは?」
「外していません。ちゃんとつけていました」
「では、なぜ翌朝の救急車のサイレンは聞こえなかったとおっしゃるのですか」
松村は黙った。法廷に、紙一枚が落ちるほどの沈黙が満ちた。
私の隣の陪審員が小さくメモを取る音がした。私は彼の手元をちらりと見た。「証人、信憑性に疑問」と書かれていた。
評議室での議論は長かった。十一人が「無罪」に傾く中、私だけが「有罪」を主張し続けた。
「決め手がないだろう」と誰かが言った。
「状況証拠だけじゃ無理だ」と別の声。
私は首を振った。
「証人の証言は生きています。補聴器の件は、外していたから聞こえなかったのではなく、別の説明ができる。救急車は遠回りのルートを通った。それは記録に残っています」
誰も知らなかった事実だった。私は続けた。
「私はあの夜、あのマンションの三棟隣に住んでいます。救急車の音は、私にも聞こえませんでした」
沈黙が落ちた。一人が口を開く。
「あなた、被告と面識は?」
「ありません」と私は答えた。嘘ではなかった。
結果は、有罪。
判決の翌日、私は封筒を一通受け取った。差出人の名はない。中には現金と、一枚のカードが入っていた。
「ありがとうございました。お約束通り」
私はカードを暖炉に放り込んだ。炎が青く揺れた。それから窓の外を見た。
通りの向かいに、黒いコートの女が立っていた。田中雄介の、生きているはずのない妻だった。