棚の一番上に並んでいるのは、まだ誰にも届いていない祈りだ。

 男は毎朝、その棚の前に立つ。白い手袋をはめ、埃をはたき、在庫を確認する。瓶の中でかすかに光るものが、祈りだと彼は言う。

「今日も多いですね」

 助手の少女が帳面を開きながら言った。

「師走だからな」

 男は答えず、一本の瓶を手に取った。琥珀色の光が、てのひらに染みた。

 この店に来る客は、祈りを買いに来るのではない。祈りを売りに来る。

 代金は記憶だ。祈った瞬間の記憶を置いていけば、それで足りる。客は祈りを手放すことで、何かを得る。軽くなった、と言う者もいる。楽になった、と言う者もいる。男はそのたびに静かに頷く。

「あの、これを」

 夕方に来た老婆は、小さな瓶を差し出した。中に白い光がある。

「娘が死ぬ前に、もう一度会いたいと思った。でも、もう要らないんです」

「なぜ」

「会えてしまったから」

 男は瓶を受け取り、棚の端に置いた。

 少女は密かに不思議に思っていた。この店が始まってから何年も経つというのに、棚の在庫は一向に減らない。叶えられた祈りは回収されてくる。叶えられなかった祈りは売れ残る。そのどちらでもない瓶が、奥の棚に増え続けている。

「先生、奥の棚のものは何ですか」

 ある夜、少女は聞いた。

「捨てられた祈りだ」

「叶わなかった、ということですか」

「違う」

 男は少し間を置いた。

「祈った人間が、先に死んだものだ」

 少女は黙った。

 奥の棚には、びっしりと瓶が並んでいた。

 翌朝、少女は出勤すると、男の姿がないことに気づいた。白い手袋だけが、カウンターの上に置いてあった。

 棚を見ると、一番奥の、最も高い段に、新しい瓶が一本増えていた。

 中で揺れる光には、見覚えがあった。

 少女はずっと前、男がある夜ひとりで祈っているのを見たことがある。誰にも言わず、棚に背を向けて、小さな声で、誰かの名前を呼んでいた。

 帳面を開くと、今日の日付の欄に、男の字で一行だけ書いてあった。

 ——在庫、ひとつ増。

ファンタジー

祈りの在庫

白瀬灯子

2026-06-09

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祈りの在庫 - ショートショート | 福神漬出版