死体は、依頼人の椅子に座っていた。

 探偵の柳田は、事務所に漂う血の匂いで目が覚めた。昨夜遅くまで酒を飲んでいたため、ソファで眠り込んでいたらしい。

 男は壁際の依頼人用の椅子に、まるで相談事を切り出す前のように行儀よく腰かけ、絶命していた。後頭部を鈍器で殴られている。

「まずい」

 柳田は呟いた。

 死体の身元はすぐわかった。財布に名刺が入っていた。宮下徹、四十二歳、不動産会社の営業部長。昨夜、電話で予約を入れてきた男だ。

 問題は、柳田が何も覚えていないことだった。

 宮下は夜十一時に訪ねてきたはずだ。しかし柳田の記憶は夜八時の、三杯目のウイスキーで途切れている。診察券が机の上にあった。心療内科の。宮下のものではなく、柳田自身の名前が印字されていた。

 柳田は警察に電話する前に、事務所を見回した。

 デスクの上のメモ帳に、柳田自身の筆跡で何かが書いてあった。

 ──妻の浮気相手を調べてほしい。相手の名前は柳田誠二。

 柳田は煙草を取り出し、火をつけようとして、ライターがないことに気づいた。灰皿の中に吸い殻が七本。すべて自分のブランドだ。だが彼には、その七本を吸った記憶がない。

 窓の外が白み始めていた。

 柳田は受話器を持ち上げた。警察に電話するべきだ。それはわかっている。

 しかし、かけた番号は違った。

「先生、また始まりました」

 電話の向こうで、心療内科の医師がため息をついた。

「柳田さん。宮下さんから昨日、私の方にも連絡がありましたよ。あなたが奥さんの依頼を受け、自分自身を尾行し始めたと」

 柳田は受話器を握りしめた。

「奥さんの浮気相手というのは、あなたが解離状態のときに現れる、もう一人のあなた自身です。宮下さんは心配して、あなたを止めようとしたんでしょう。そして」

 医師は言葉を区切った。

「柳田さん。今、あなたの右手に何が握られていますか」

 柳田は、ゆっくりと視線を下げた。

 血の乾いた灰皿が、右手にあった。

ミステリー

最後の依頼人

倉橋冬司

2026-06-10

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最後の依頼人 - ショートショート | 福神漬出版