妻が毎朝コーヒーを二杯淹れるようになったのは、三ヶ月前からだ。
田辺は気にしなかった。習慣とはそういうものだ。人間は理由のない行動をする。
「今日、何時に帰る?」
「七時ごろ」
「わかった」
妻の返事はいつも短い。それも昔からだ。
田辺は中学校で国語を教えている。担当クラスでは毎週小テストを実施する。十問の漢字書き取り。採点は速い。二十年のキャリアが手を動かす。
今週の正解率は、クラス平均で六十二点だった。
職員室に戻ると、同僚の松田が話しかけてきた。
「田辺さん、奥さんと最近うまくいってるの」
「さあ。普通じゃないか」
「普通か」
松田はそれ以上言わなかった。田辺も聞かなかった。
夜、妻は夕飯を一人分だけ用意していた。
「食べてきた」と妻は言った。
田辺は一人でカレーを食べた。よく煮込んであった。旨かった。
食後、妻はソファでスマートフォンを見ていた。画面に指を走らせるたびに、かすかに口元が動いた。
「面白いものでも見てるのか」
「別に」
田辺は風呂に入った。湯船の中で、今日の授業を反省した。三時間目の説明が冗長だった。生徒の顔が退屈そうだったと気づくのが遅すぎた。
翌朝、コーヒーは一杯だけだった。
田辺は何も言わなかった。テーブルには書き置きがあった。
「しばらく実家に帰ります」
七文字。句読点なし。
田辺はコーヒーを飲みながら、書き置きを何度か読んだ。行間を読もうとした。しかし紙には続きがなかった。
学校へ向かう電車の中で、田辺は三ヶ月前を思い返した。コーヒーが二杯になった日。妻の帰りが遅くなった週。夕食の会話が、天気の話だけになった夜。
伏線は全部あった。
田辺は窓の外を見た。曇り空だった。
職員室に着くと、机の上に先週のテストの束があった。田辺はもう一度だけ確かめた。クラス平均、六十二点。
二十年間、他人の読解力を採点してきた。
自分の正解率は、まだ集計していない。