禁断書庫から戻った四人は、重い沈黙の中で円卓を囲んでいた。古い羊皮紙に記された封印術の内容が、まるで呪縛のように彼らの心に重くのしかかっている。

 陽菜は手のひらで温めた茶碗を握りしめながら、ちらりと仲間たちの表情を窺った。晴明は眉間に深い皺を刻み、北斎は普段の豪快さを潜めて難しい顔をしている。エジソン明治も珍しく発明品をいじることなく、じっと考え込んでいた。

「やはり、他に方法を探すべきでしょうか」

 陽菜の呟きに、晴明が静かに首を振る。

「我らが探し得た中では、あの封印術が最も確実な手段です。しかし…」

 彼の言葉が途切れたとき、図書館全体に微かな震動が走った。本棚に並ぶ書物がかすかに震え、古い装丁がきしむ音が響く。

「今のは…」

 北斎が立ち上がりかけたその瞬間、図書館の照明が一瞬明滅した。温かな燭台の光が揺らめき、四人の影が壁に不規則に踊る。

 エジソン明治が懐中時計を取り出すと、針が異常な動きを見せていた。

「時空に歪みが生じています。それも、これまでとは質の違う…」

 彼の言葉を遮るように、再び震動が襲った。今度は先ほどより強く、長い。本棚の奥から、まるで何かが這い出てくるような、嫌な気配が漂ってきた。

 陽菜は背筋に冷たいものを感じた。これまで感じたことのない、底知れない恐怖が心の奥から湧き上がってくる。

「皆さん、これは時喰いの気配ではありません」

 晴明の声に緊張が滲んでいる。彼が式神を呼び出そうとした時、図書館の向こう側から、低く響く声が聞こえてきた。

『ようやく見つけた…時層図書館の守人たち』

 その声は男でも女でもない、年老いた者でも若い者でもない、まるで虚空から響いてくるような不気味な響きを持っていた。四人は反射的に身を寄せ合い、声の方向を見つめる。

 図書館の奥、幾重にも重なる本棚の向こうに、黒い影がゆらりと立ち上がった。それは人の形をしているようでもあり、煙のようにも見える曖昧な輪郭を持つ存在だった。

『私の愛しい時喰いたちが、随分と手間取っているようですね』

 影の声に含まれる感情は、愛情とも嘲笑ともつかない、ねっとりとした響きを持っていた。

「時喰いを操っているのは、貴様か」

 北斎が筆を構えながら低く呟く。その瞬間、影がくすくすと笑い声を立てた。

『操る? いいえ、違います。私は彼らを愛し、慈しみ、そして解放してあげているのです。絶望という名の真実から』

 陽菜は本能的に一歩後ずさった。その影から発せられる圧倒的な虚無感が、まるで生きる意欲そのものを奪っていこうとするかのようだった。

「解放だと? ふざけるな。お前は人々の記憶を食い荒らし、歴史を破壊しているだけではないか」

 エジソン明治が憤りを込めて叫ぶと、影は再び笑った。

『記憶こそが苦痛の源です。過去への執着こそが、人々を縛り付ける鎖なのです。私は全てを無に還すことで、真の平安を与えようとしているのですよ』

 晴明が一歩前に出る。

「貴様の名は何と言う」

 その問いに、影は初めて感情らしきものを声に込めた。それは深い悲しみと、同時に恐ろしいまでの虚無感だった。

『名前…そんなものは、とうの昔に捨て去りました。今の私は、ただ収集家。虚無の収集家とでも呼んでください』

 虚無の収集家と名乗った影は、ゆっくりと本棚の間を縫って近づいてくる。その通り道では、本の文字が薄れ、装丁の色が褪せていく。

「何をするつもりだ」

 陽菜の震え声に、収集家は優しげな調子で答えた。

『心配はいりません、守人の末裔よ。私はまだ、あなた方を消し去るつもりはありません。まずは、この図書館に眠る全ての記憶を頂戴したい』

 その言葉に、四人は愕然とした。時層図書館は全時代の記憶と知識が集約された、人類の叡智の結晶である。それを失えば、歴史そのものが消失してしまう。

 北斎が筆を振り上げた瞬間、収集家の影がふっと薄れた。

『今日のところは、顔見せまでです。近いうちに、必ずや全てを虚無に還してご覧に入れましょう』

 影が完全に消え去ると、図書館に静寂が戻った。しかし、その静寂はこれまでの安らぎに満ちたものではなく、嵐の前の不気味な静けさだった。

 陽菜は膝が震えるのを感じていた。あの影から発せられていた虚無感は、まるで存在そのものを否定されるような恐怖を与えていた。

「皆さん…今のは一体」

「時喰いを生み出し、操る真の敵です」

 晴明の答えは簡潔だったが、その声には深い憂いが込められていた。

「しかし、なぜ今まで姿を現さなかったのでしょう」

 エジソン明治の疑問に、北斎が苦い表情で答える。

「俺たちが禁断書庫で封印術を見つけたからだろう。奴にとって脅威となる存在だと認識されたのかもしれん」

 陽菜は手を震わせながら、胸に手を当てた。守人の血が騒いでいる。図書館そのものが危険を感じて、彼女に警告を発していた。

「あの人は…収集家は、本当に全ての記憶を消そうとしているのでしょうか」

「奴の言葉を聞く限り、間違いないでしょう」

 晴明の答えに、四人は再び重い沈黙に包まれた。

 これまで彼らは時喰いという存在と戦ってきたが、それは結果として現れた症状に過ぎなかったのだ。真の病根は、あの虚無の収集家という存在にあった。

「俺たちは、とんでもない相手を敵に回していたということか」

 北斎の呟きに、陽菜は小さく頷いた。あの圧倒的な虚無感を前にして、自分たちに勝ち目があるのだろうかと不安が心を支配する。

 しかし同時に、守人としての使命感も燃え上がっていた。この図書館に眠る無数の記憶と知識を、決して失わせてはならない。

「でも、私たちがやらなければならないことに変わりはありません」

 陽菜の言葉に、三人が振り返る。

「この図書館を、そして全ての時代の記憶を守り抜くこと。それが私たちの使命です」

 その時、図書館の奥から微かに風が吹いてきた。それは収集家が残していった虚無の気配を運び去り、代わりに新しい決意の香りをもたらすかのようだった。

 四人は互いを見つめ合い、静かに頷いた。真の戦いは、これから始まるのだった。

時層図書館の守人たち

12

虚無の影

織部 時花

2026-04-01

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第12話 虚無の影 - 時層図書館の守人たち | 福神漬出版