虚無の収集家の姿が、陽菜たちの前で揺らめいていた。彼の身体を覆っていた暗黒の外套が風に舞うように散り始め、その下から現れたのは、まるで霞のように半透明な青年の姿だった。

「これが……私の真の姿か」

 収集家は自分の手のひらを見つめ、驚いたような声を漏らした。その声には、これまでの冷酷さはなく、ただ困惑と寂しさが滲んでいた。

 陽菜は息を呑んだ。目の前に立つ青年は、どこか儚げで、まるで今にも消えてしまいそうだった。彼の瞳には深い悲しみが宿り、その表情は長い間忘れていた人間らしさを取り戻しつつあった。

「君は一体……」晴明が慎重に言葉を選びながら尋ねた。

 青年は振り返ると、苦しそうに微笑んだ。

「私は……失われた記憶そのものだった。人々が忘れ去り、誰にも思い出されることのない記憶たちが、この図書館に集まって形作られた存在。それが私の正体だ」

 陽菜の心臓が大きく跳ねた。失われた記憶の化身。それがあまりにも切ない響きを持って、彼女の胸に響いた。

「忘れられた記憶……」北斎が筆を握る手を緩めながら呟いた。「それは確かに、この図書館には無数にあるだろうな」

 明治も発明品をしまいながら頷いた。「時層図書館は全ての記録を保存する場所。当然、忘れ去られた記憶も多く眠っているはずだ」

 青年は図書館の無数の本棚を見上げた。

「そうだ。愛する人の最期の言葉も、子供の頃の大切な約束も、戦争で散った者たちの想いも……全て忘れられ、誰にも語られることなく、この場所に漂い続けていた。それらが長い年月をかけて集まり、一つの意識を持つようになった。それが私だった」

 陽菜は胸が締め付けられるような思いだった。忘れられた記憶たちが寂しさのあまり一つになって、虚無の収集家となっていたのだ。

「だから君は……すべての記憶を消そうとしていたのですか」陽菜が震え声で尋ねた。

 青年は悲しげに首を振った。

「記憶があるから、忘れられる痛みが生まれる。ならばいっそ、すべてを無にしてしまえば、誰も忘れられることの苦しみを味わわずに済む。そう思っていた」

「それは違います」陽菜は強い意志を込めて言った。「忘れられることは確かに寂しいかもしれません。でも、記憶が存在したからこそ、その人たちは確かに生きていた証拠になるんです」

 青年の瞳に困惑の色が浮かんだ。

「証拠……?」

「はい」陽菜は一歩前に出た。「たとえ忘れられても、その記憶はその人が愛し、愛された証なんです。喜んだり、泣いたり、怒ったり……それら全てが、その人がこの世界に確かに存在していた印なんです」

 晴明が静かに続けた。

「忘却もまた、人の世の摂理の一つ。しかし忘れられたからといって、その価値が失われるわけではない。我々守人は、そのすべてを等しく守護するのが使命なのだ」

 北斎が力強く頷いた。

「そうとも! 俺だって、描いた絵の全てが後世に残るわけじゃあるまい。でもな、たとえ忘れられても、その瞬間に込めた想いは本物だったんだ」

 明治も温かい笑顔を浮かべた。

「発明もそうだ。失敗作や試作品の方が圧倒的に多い。でもそれらがあったからこそ、成功に辿り着けた。忘れられた記憶にも、きっと同じ価値がある」

 青年の身体がさらに透明になっていく。しかし今度は消滅するのではなく、まるで浄化されていくかのように、柔らかな光を帯び始めていた。

「君たちの言葉を聞いていると……不思議だ。これまで感じたことのない暖かさが胸に広がる」

 陽菜は青年に向かって手を差し伸べた。

「寂しかったんですね。忘れられた記憶たちも、そしてあなたも」

 青年は陽菜の手を見つめ、ゆっくりと自分の手を重ねた。その瞬間、陽菜の心に無数の記憶の断片が流れ込んできた。

 ――母親の子守唄を聴く赤子の記憶。

 ――戦場で故郷を想う若い兵士の記憶。

 ――孫の成長を願う老人の記憶。

 どれも忘れ去られてしまった小さな記憶だったが、どれもが愛と希望に満ちていた。陽菜の頬に涙が伝った。

「こんなにも美しい記憶たちだったんですね」

 青年も涙を流していた。透明な身体から溢れる涙は、光の粒のように宙に舞った。

「ありがとう……長い間、私は自分が何なのかも分からず、ただ痛みと寂しさだけを抱えて彷徨っていた。でも君たちに出会えて、ようやく理解できた。私は確かに存在していていいんだ」

 図書館全体が優しい光に包まれた。これまで暗く重苦しかった空気が、まるで春の陽だまりのような暖かさに変わっていく。

「これからどうされるのですか」晴明が尋ねた。

 青年は図書館の本棚を見回した。

「私はここに残ろう。忘れられた記憶たちの代弁者として、そして新たに忘れられていく記憶たちの受け皿として。でも今度は破壊するのではなく、大切に保管し、守っていくために」

 陽菜の心に温かな希望が芽生えた。

「それは素晴らしいことです。私たちも一緒に、すべての記憶を守っていきましょう」

 青年は初めて心からの笑顔を見せた。

「ああ、よろしく頼む……いや、よろしくお願いします」

 その時、図書館の奥から新たな気配が漂ってきた。陽菜たちは振り返ると、まだ見たことのない扉がゆっくりと開かれていくのを目にした。

「あれは……」明治が目を凝らした。

 扉の向こうから漏れる光は、これまでのどの時代とも異なる、未来的な輝きを放っていた。

時層図書館の守人たち

42

虚無の正体

織部 時花

2026-05-01

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第42話 虚無の正体 - 時層図書館の守人たち | 福神漬出版