目覚めた瞬間、雨宮蒼は何かが決定的に間違っていることを悟った。
アパートの天井を見上げながら、彼は静かに意識を覚醒させていく。いつもの習慣だった。記憶探偵という職業柄、一日の始まりは自分の記憶の整理から始まる。昨日何をしたか、何を見たか、何を感じたか。それらを順序立てて思い出すことで、他人の記憶に潜る際の精度を保つのだ。
しかし、今朝は違った。
昨日の記憶が、完全に消失していた。
蒼は上半身を起こし、枕元の時計を確認する。午前七時十二分。いつもと同じ時刻に目覚めている。身体に異常な疲労感はない。頭痛もない。ただ、昨日という日が、まるで最初から存在しなかったかのように消えていた。
「おかしい」
呟きながら、蒼は記憶を辿ろうと試みる。一昨日の夜、瑞希が何者かに襲われて病院に運ばれた。そこまでは鮮明に覚えている。田中刑事と病院で話したこと、謎の人物Rからのメッセージを受け取ったこと、瑞希の研究資料を確認したこと。すべて明確に記憶にある。
では昨日は何をしていたのか。
蒼は立ち上がり、部屋の中を見回した。いつもと変わらない殺風景なワンルームアパート。本棚には記憶技術に関する専門書が並び、デスクには昨日までの事件資料が整然と積まれている。一見すると、何も変わっていないように見えた。
しかし、洗面所に向かった時、蒼は愕然とした。
洗濯カゴの中に、血の付いたシャツが入っていたのだ。
白いコットンシャツの胸元に、乾いた茶色い染みが広がっている。それは明らかに血痕だった。蒼は慎重にシャツを手に取り、匂いを嗅いでみる。鉄錆のような血の匂いと、かすかに香水の香りが混じっていた。見覚えのない香りだった。
「何があったんだ、昨日」
動揺を押し殺しながら、蒼はシャツをビニール袋に入れて保管する。記憶探偵として培った冷静さが、パニックに陥りそうになる心を支えていた。
キッチンでコーヒーを淹れながら、蒼は状況を整理しようと試みた。記憶を失うということは、記憶探偵である自分にとって致命的な問題だ。しかも、血の付いたシャツが示すように、何らかの事件に巻き込まれた可能性がある。
コーヒーを一口飲んだ時、デスクの上に見慣れない封筒があることに気づいた。昨日まで確実になかったものだ。蒼は封筒を手に取り、中身を確認する。
一枚の写真が入っていた。
二十代後半の美しい女性の写真だった。長い黒髪を持つその女性は、カフェのようなところで微笑んでいる。背景から判断すると、都内のおしゃれなエリアで撮影されたもののようだった。しかし、蒼はこの女性に全く見覚えがなかった。
写真の裏を確認すると、青いインクで「約束を覚えていますか? M」と書かれていた。Mという人物も、約束という言葉も、蒼の記憶にはなかった。
携帯電話の着信履歴を確認してみる。昨日の午後二時に、知らない番号からの着信が記録されていた。発信者は非通知設定になっている。午後四時には、同じ番号に発信した記録もあった。通話時間は十三分。
「何を話したんだ」
蒼は頭を抱えた。記憶探偵である自分が記憶を失うなど、あってはならないことだった。しかも、それは自然な記憶喪失ではないように思われた。あまりにも選択的すぎる。昨日の出来事だけが、まるで手術で切り取られたように消えている。
その時、インターホンが鳴った。
モニターを確認すると、田中刑事が立っていた。いつものしかめっ面で、何やら深刻そうな表情を浮かべている。
「田中さん、おはようございます」
ドアを開けると、田中は蒼の顔を見詰めてから、安堵の表情を浮かべた。
「雨宮、無事だったか。昨日から連絡が取れなくて心配していたんだ」
「昨日から?」
「ああ。午後に約束していただろう。桜庭さんの件で追加の聞き取りをするって」
蒼は困惑した。そんな約束をした記憶が全くない。
「田中さん、申し訳ありませんが、その約束のことを詳しく教えてもらえますか」
田中の眉間に皺が寄った。
「何を言ってるんだ。昨日の朝、お前から電話があったんだよ。重要な情報を掴んだから、午後三時に事務所で会おうって」
「重要な情報?」
「桜庭さんを襲った犯人に関する手がかりだって言っていた。だから三時に事務所に行ったんだが、お前は現れなかった。携帯にも繋がらないし、どうしたのかと思っていたんだ」
蒼は額に汗が浮かぶのを感じた。昨日の記憶が完全に抜け落ちているだけでなく、自分が約束を破っていたということになる。しかも、瑞希の事件に関する重要な手がかりを掴んでいたという。
「田中さん、実は昨日の記憶が全くないんです」
正直に告白すると、田中は目を見開いた。
「記憶がない? まさか、お前も襲われたのか?」
「分かりません。気がついたら今朝でした。ただ、血の付いたシャツと、この写真が残されていて」
蒼は写真を田中に見せた。田中は写真を受け取り、じっと見詰めた。
「この女性に見覚えは?」
「ない。だが、美人だな。モデルか何かか?」
「分かりません。裏にMという人物からのメッセージが書かれています」
田中は写真を裏返し、メッセージを読んだ。その表情が徐々に険しくなっていく。
「雨宮、これは危険だ。お前の記憶が消されたのは偶然じゃない。桜庭さんを襲った犯人と同一人物の可能性が高い」
「記憶を消す技術があるということですか?」
「桜庭さんの研究分野を考えれば、不可能ではないだろう。記憶可視化技術の応用で、記憶を操作することも理論的には可能だと聞いたことがある」
蒼は血の付いたシャツのことを思い出した。
「田中さん、もしかすると昨日、何らかの事件に巻き込まれたかもしれません。証拠があります」
シャツを見せると、田中の表情はさらに深刻になった。
「これは早急に科学捜査研究所で鑑定に回す必要がある。血液型、DNA、付着物の分析。すべて調べよう」
「ありがとうございます」
「それより雨宮、お前は本当に何も覚えていないのか? 断片でも構わない」
蒼は必死に記憶を探った。昨日という日に、わずかでも手がかりはないだろうか。
その時、頭の奥で何かがちらりと光った。香水の匂い。優しい女性の声。そして、「必ず戻ってきて」という言葉。
「待ってください。何か、わずかに残っているかもしれません」
「何だ?」
「女性の声です。『必ず戻ってきて』と言われた記憶が。それと、香水の匂い」
田中は写真を再び見詰めた。
「このMという女性と会ったということか」
「可能性はあります。ただ、なぜ会ったのか、何を約束したのかは分からない」
田中は立ち上がった。
「雨宮、今すぐ病院で検査を受けよう。記憶を消す薬物を使われた可能性もある。それに、この写真の女性についても調べる必要がある」
蒼は頷いた。しかし、心の奥で別の不安が芽生えていた。もし昨日、自分が何か取り返しのつかないことをしていたとしたら。血の付いたシャツが示すように、誰かを傷つけてしまったとしたら。
記憶を失うということは、自分の行動に対する責任も失うということだ。そのことの恐ろしさが、じわじわと蒼の心を蝕んでいく。
「田中さん、もし昨日、私が何か悪いことをしていたとしたら」
「考えるな。お前はそんな人間じゃない。きっと何かに巻き込まれただけだ」
しかし、田中の声に確信は感じられなかった。
その時、蒼の携帯電話に着信があった。非通知番号だった。昨日と同じ番号かもしれない。
蒼は田中と目を合わせてから、通話ボタンを押した。
「もしもし」
電話の向こうから、聞き覚えのない女性の声が聞こえてきた。
「蒼さん、昨日のこと、覚えていますか? 約束を破るなんて、あなたらしくない」
それは、写真の女性、Mの声だった。