蒼が昨夜の記憶を探ろうと額に手を当てていると、玄関のチャイムが鳴り響いた。誰かが来るはずもない時間帯だった。午前九時過ぎ、多くの人々が慌ただしく通勤ラッシュに身を任せている頃である。
「はい」
インターホンの画面に映ったのは、見覚えのある女性の顔だった。長い黒髪を後ろで束ね、知的な眼鏡の奥から澄んだ瞳がこちらを見つめている。一瞬、記憶の奥底で何かが蠢いたような気がしたが、すぐに霞のように消えてしまった。
「桜庭瑞希です。お久しぶり、蒼」
その名前を聞いた瞬間、蒼の胸の奥で温かいものが広がった。理由は分からない。ただ、この女性に対して抱く感情は、決して悪いものではなかった。
ドアを開けると、白いブラウスに紺のスカートという清楚な装いの女性が立っていた。彼女は微笑みかけてきたが、その笑顔のどこか奥に心配そうな色が宿っているのを蒼は見逃さなかった。
「上がらせてもらってもいい?」
「ああ、どうぞ」
蒼は慌てて部屋を見回した。血の付いたシャツは洗濯機に放り込んであったが、写真はまだテーブルの上に置いてある。瑞希がそれに気づく前に、何気なく雑誌で隠した。
「コーヒーでいいか?」
「ありがとう」
瑞希はソファに腰を下ろし、部屋をぐるりと見回した。その視線が鋭く、まるで何かを探しているようだった。蒼は台所でコーヒーを淹れながら、彼女の横顔を盗み見る。整った鼻筋、薄い唇、そして時折眉間に寄る皺。すべてが既視感に満ちていた。
「君は、俺の」
「幼馴染よ」瑞希が振り返る。「記憶技術研究所で働いているの。昨日、田中刑事から連絡があったのよ。あなたが約束の時間に現れなかったって」
蒼はコーヒーカップを彼女の前に置き、向かいの椅子に座った。瑞希の表情は穏やかだったが、その瞳の奥に宿る光は鋭かった。
「田中さんから聞いているかもしれないけれど、俺は昨日の記憶を失っている」
「ええ。それで来たの」瑞希はコーヒーに口をつけながら言った。「記憶消失の原因を調べるために、あなたの脳波パターンを解析したいの」
蒼は眉をひそめた。「俺たちの関係は?なぜ君がそこまで」
「幼馴染以上の何かだったかもしれないし」瑞希は少し頬を染めて視線を逸らした。「そうでなかったかもしれない。でも、あなたが困っているなら、手を貸したいと思うの」
その言葉には嘘がないように聞こえた。しかし、蒼の職業的直感が何かを察知していた。彼女の言葉の端々に、隠された何かがある。
「記憶技術研究所」蒼は言葉を反復した。「そこではどんな研究を?」
「主に記憶の可視化技術の改良と、記憶障害の治療法開発よ」瑞希の声に専門家としての誇りが宿った。「最近は記憶操作技術の防御システムの開発にも取り組んでいるの。悪用を防ぐために」
蒼の心臓が早鐘を打った。「記憶操作技術?」
「ええ。残念ながら、記憶を人工的に消去したり、偽の記憶を植え付けたりする技術が闇ルートで出回っているの」瑞希は表情を曇らせた。「あなたの症状も、その可能性が高いと思う」
蒼は立ち上がり、窓辺に歩いた。外では2035年の東京が息づいている。ホログラム広告が宙に踊り、自動運転車が静かに行き交う。記憶可視化技術が社会を変えてから五年。便利になった半面、新たな犯罪も生まれていた。
「なぜ俺の記憶が消されたと思う?」
「それを調べるために、協力したいの」瑞希が立ち上がり、蒼の隣に並んだ。「研究所には最新の記憶解析装置がある。消去された記憶でも、痕跡から復元できる可能性があるのよ」
蒼は瑞希を見つめた。彼女の瞳に宿る決意の光が、なぜか懐かしく感じられた。
「危険かもしれない」
「構わない」瑞希は即答した。「あなたを一人にはできない」
その時、蒼のスマートフォンが鳴った。昨日電話をかけてきた「M」からだった。蒼は瑞希に目で合図し、通話ボタンを押した。
「もしもし」
「記憶は戻ったかしら?」女性の声が響く。「まだなら、お気の毒ね」
「君は何者だ?なぜ俺の番号を」
「それより、あなたの隣にいる女性に気をつけて」声が冷たくなった。「すべての人が味方とは限らないわ」
通話は一方的に切れた。蒼は瑞希を見た。彼女は困惑した表情を浮かべている。
「どうしたの?」
「分からない」蒼は首を振った。「ただの嫌がらせかもしれない」
しかし、心の奥で小さな疑念が芽生えていた。なぜ、このタイミングで瑞希が現れたのか。なぜ、記憶技術の専門家である彼女が、これほど積極的に協力を申し出るのか。
「研究所に行きましょう」瑞希が提案した。「早い方がいいわ。記憶の痕跡は時間が経つほど薄れていくから」
蒼は頷いた。他に選択肢はなかった。昨日の記憶、血の付いたシャツ、謎の女性M。すべての答えが記憶の奥に眠っているなら、どんな危険を冒しても取り戻すしかない。
「分かった。君を信じる」
瑞希の表情に安堵の色が浮かんだ。しかし、蒼は見逃さなかった。彼女が振り返った瞬間、その顔に浮かんだ複雑な感情を。それは安堵だけではなく、何か別の、もっと深い感情だった。
二人は連れ立って部屋を出た。蒼は最後に振り返り、テーブルの上の雑誌を見つめた。その下に隠された写真の女性が、今度いつ現れるのか分からない。
エレベーターの中で、瑞希が小さくため息をついた。
「どうした?」
「昔を思い出していたの」彼女は微笑んだ。「あなたはいつも、困った人を放っておけない性格だった」
「昔?」
「小学校の頃、いじめられている子を助けて、逆に自分が標的にされたことがあったでしょう?」
蒼の頭の中で、ぼんやりとした映像が浮かんだ。校庭の隅、泣いている小さな女の子、そして自分の前に立ちはだかる数人の男子生徒たち。
「覚えているの?」瑞希の声に希望の色が宿った。
「少しだけ」蒼は額を押さえた。「でも、はっきりしない」
「きっと戻るわ」瑞希は蒼の腕に軽く触れた。「記憶は消えても、心に刻まれたものは残っているから」
地下駐車場で瑞希の車に乗り込みながら、蒼は胸の奥で温かいものが広がるのを感じた。この女性といると、不安な気持ちが和らいだ。しかし同時に、先ほどの電話の警告が頭を離れなかった。
すべての人が味方とは限らない。
車が動き出すと、瑞希が静かに口を開いた。
「蒼、一つだけ約束して」
「何を?」
「真実が分かったとき、どんなにつらいことでも、逃げないで」
その言葉の重さに、蒼は振り返った。瑞希の横顔は美しかったが、どこか悲しげだった。
「君は何か知っているのか?」
「まだ憶測の段階よ」瑞希は前を向いたまま答えた。「でも、あなたが失った記憶には、きっと重要な秘密が隠されている」
記憶技術研究所へ向かう車の中で、蒼は窓外の景色を眺めながら考えた。失われた昨日には何があったのか。なぜ血の付いたシャツが残されていたのか。そして、謎の女性Mの正体は。
すべての答えが、これから向かう場所で明らかになるかもしれない。しかし、蒼の心の奥で小さな声が囁いていた。
真実を知ったとき、君はそれに耐えられるのか、と。