夜が深くなると、この街の記憶たちが囁き始める。
霞ヶ丘市の古い商店街を歩いていると、石畳の隙間から零れ落ちる想いの欠片が足音に混じって響いてくる。誰かの初恋、別れの涙、喜びの笑い声——それらすべてが影となって、街角に薄っすらと浮かび上がっているのを、僕は見ることができた。
夕凪朔夜、十九歳。他人の記憶を影絵として映し出す、そんな不思議な能力を持って生まれてしまった。
「また来てしまったな」
僕は立ち止まり、目の前にある小さな古書店を見上げた。『椿野書房』という看板が、街灯の明かりに照らされて淡く光っている。この店の主人である椿野老師は、僕の能力について教えてくれた唯一の人だった。
店内に灯りが点いている。きっと老師は今夜も古い本と向き合っているのだろう。僕は扉を押し開けた。
「よく来たね、朔夜くん」
カウンターの奥から、白髪の男性が顔を上げた。椿野老師は相変わらず飄々とした表情で、手にしていた古書を静かに閉じる。
「また、あの夢を見たんです」
「ほう。今度はどんな記憶だった?」
僕は椅子に腰を下ろし、今朝方見た夢について話し始めた。それは誰かの幼い頃の記憶だった。母親の温かい手に包まれて眠りにつく、そんな穏やかな光景。だが、その記憶の隅に、得体の知れない影がちらりと映り込んでいたのが気になっていた。
「記憶というものは面白いものでね」老師は湯呑みを二つ用意しながら言った。「時として、本来そこにあるべきではないものが紛れ込むことがある」
「それは、どういう意味ですか?」
「まあ、そのうち分かることだろう。それより今夜は、君に頼み事がある」
老師は奥の部屋から一枚の写真を持ってきた。写真に写っているのは七十代ほどの男性で、困ったような表情を浮かべている。
「この方は近所に住む山田さんという方でね。先日、ひどい事故に遭われて記憶の一部を失ってしまった。特に、亡くなった奥さんとの思い出をほとんど忘れてしまって、とても辛い思いをしている」
「それで、僕に記憶を復元してほしいと?」
「そういうことだ。君の影絵なら、きっと山田さんの心に眠る記憶を呼び起こすことができるだろう」
僕は写真を見つめた。老人の瞳には、深い悲しみと戸惑いが宿っている。記憶を失うということの辛さは、僕にもよく分かった。
「分かりました。やってみます」
翌日の夜、僕は山田さんのお宅を訪れた。木造の古い家で、玄関には使い込まれた下駄が几帳面に並んでいる。
「椿野さんからお聞きしました。夕凪さんですね」
山田さんは穏やかな口調で僕を迎えてくれたが、その目の奥にある喪失感は隠しようがなかった。
「妻のことが思い出せないんです。一緒に過ごした五十年間の記憶が、まるで霧の中に消えてしまったみたいで」
僕たちは座敷に向かい合って座った。山田さんは仏壇の前に置かれた女性の遺影を見つめている。
「この写真を見ても、頭では妻だと分かるのですが、心が何も感じないんです。愛していたはずなのに、その気持ちさえも」
僕は静かに立ち上がり、部屋の電気を消した。月明かりだけが差し込む薄闇の中で、僕は両手を壁に向けて構える。
「では、始めさせていただきます」
僕は目を閉じ、山田さんの記憶の奥深くへと意識を向けた。まるで深い海の底へ潜っていくように、彼の心の中へと降りていく。そこで僕が見つけたのは、確かに残っていた愛の記憶の断片だった。
壁に影絵が浮かび上がる。若い男女が手を取り合って歩く姿、縁側で並んで夕日を眺める姿、台所で一緒に料理を作る姿——五十年間の夫婦の歴史が、影となって次々と映し出されていく。
「ああ、これは」山田さんの声が震えた。「これは、妻との初めてのデートの時の」
影絵の中の若い女性が振り返って微笑む。その瞬間、山田さんの頬に涙が伝った。
「思い出しました。この笑顔、この仕草。すべて、すべて思い出しました」
僕は安堵の息を吐いた。記憶の復元は成功したようだ。しかし次の瞬間、壁に映る影絵の中に異変が起きた。
幸せそうな夫婦の影の向こうに、もう一つ別の影がぼんやりと浮かび上がったのだ。それは人の形をしているようで、しかし明らかに人間ではない何かの影だった。その影は夫婦を見つめるように佇んでいて、瞳のあるべき場所に不気味な光を宿している。
「これは」僕は息を呑んだ。
山田さんは記憶を取り戻した喜びに夢中で、その不可解な影には気づいていないようだった。しかし僕には、その影から発せられる異質な気配がはっきりと感じられた。それは記憶を食らう何かの気配——。
「本当にありがとうございました」山田さんは深々と頭を下げた。「おかげで妻との思い出が戻りました」
僕は努めて平静を装いながら影絵を終了させた。壁に映っていた影はすべて消え、部屋は再び静寂に包まれる。
「いえ、お役に立てて良かったです」
帰り道、僕は先ほど見た不可解な影のことを考えていた。あれは一体何だったのか。山田さんの記憶に紛れ込んでいた、あの人間ならざる影は。
椿野書房の前に戻ると、店内はまだ明かりが灯っていた。僕は迷わず扉を開ける。
「おかえり。どうだった?」
老師は僕の表情を見て、何かを察したようだった。
「記憶の復元は成功しました。でも」
「でも?」
「変な影が映り込んでいたんです。人間じゃない、何か別の存在の影が」
老師の表情が一瞬、険しくなった。
「その影の瞳は、何色だった?」
「瞳?そんなものまで見えるはずが」
だが僕は思い出した。確かにあの影の瞳には、鈍い金色の光が宿っていた。
「金色、でした」
老師は深いため息をついた。
「そうか。ついに、この街にも現れたか」
「一体、何なんですか?」
「忘却獣だよ、朔夜くん」老師は重い口調で言った。「記憶を食らう、古い魔物の一種だ。そして今君が見たのは、おそらくその前触れに過ぎない」
僕は背筋が凍る思いがした。記憶を食らう魔物。それが、この街に現れたというのか。
「これからこの街で、記憶にまつわる不可解な事件が増えるだろう。そしてそれらすべてに、君の力が必要になる」
老師は古い本を開き、そこに描かれた挿絵を僕に見せた。金色の瞳を持つ影のような生き物が、人々の記憶を貪り食っている図だった。
「君の戦いは、今始まったばかりだ」
その夜、僕は自分の部屋に戻ってからも眠ることができなかった。窓の外を見つめながら、あの金色の瞳のことを考えていた。
記憶を食らう忘却獣。そして、その存在を知る老師。僕の能力は、単なる偶然の産物ではないのかもしれない。
遠くから夜風に乗って、誰かの泣き声のような音が聞こえてきた。それは記憶を失った者の嘆きなのか、それとも——。
僕は拳を握りしめた。この街の記憶を守るために、僕に何ができるのか。答えはまだ分からないが、少なくとも一つだけ確かなことがあった。
この戦いから、逃げるわけにはいかない。