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影絵師と零れ落ちる記憶

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記憶の番人

夜想 遥 | 2026-03-21

朔夜が古書店『想起堂』の扉を開くと、昨夜とは打って変わって静寂が店内を支配していた。薄暗い店の奥で、椿野老師がいつものように煙管を燻らせている。紫煙が本の背表紙に描かれた文字を霞ませて、まるで記憶が薄れていく様を表現しているかのようだった。

「おはようございます、老師」

 朔夜の挨拶に、椿野老師は煙管を口から離してゆっくりと振り返った。その瞳に宿る表情は、いつもの飄々としたものではなく、どこか警戒めいた色を帯びている。

「朔夜よ、昨夜のことは覚えているな?」

「はい。忘却獣のことですね」

 老師は静かに頷いた。そして立ち上がると、店の奥へと朔夜を手招きした。普段は立ち入ることのない書庫の更に奥、朔夜も初めて足を踏み入れる場所だった。

 そこには古い木製の階段があり、地下へと続いている。踏み板は年月を重ねた軋みを響かせ、二人の足音が暗闇に吸い込まれていった。階段を下りきると、そこは想像していたよりもずっと広い地下室だった。壁一面に古い巻物や書物が並び、中央には円形の石台が置かれている。

「ここは記憶に関する古い知識を保管している場所だ」老師は説明しながら、石台の上に置かれた一冊の古書に手を伸ばした。「お前の能力について、もう少し詳しく話す必要がある」

 朔夜が石台に近づこうとした時、背後から鈴の音が響いた。振り返ると、階段の上に人影が立っている。薄い光に照らされたその姿は、白い和装に身を包んだ少女だった。黒く長い髪を後ろで結い、凛とした表情で二人を見下ろしている。

「椿野様」

 少女の声は澄んでいて、どこか古風な響きを持っていた。階段を降りてくる足音は、まるで舞を踊るように軽やかだった。

「紬か」老師は煙管を口に戻しながら言った。「ちょうどよい時に来たものだ」

 織部紬と名乗った少女は、朔夜を見つめたまま石台の前で立ち止まった。その瞳は深い藍色で、まるで夜空に宿る星のような静かな輝きを湛えている。

「この方が、影絵師の能力をお持ちの夕凪朔夜様でございますね」

 紬の言葉に、朔夜は驚いて老師を見た。自分のことがすでに知られていることに戸惑いを覚える。

「紬は記憶を守護する古い一族の末裔だ」老師が説明した。「織部の家は代々、記憶の番人として霞ヶ丘の地に根ざしてきた」

「記憶の番人?」

 朔夜の問いに、紬は静かに頷いた。

「はい。私たちは記憶が正しく保たれ、継承されることを使命としております。そして」紬の瞳に僅かな警戒の色が浮かんだ。「記憶を扱う能力者が、その力を正しく用いているかを見守ることも」

 空気がひんやりとした緊張に包まれた。朔夜は紬の言葉に込められた意味を理解する。彼女は自分を試しに来たのだ。

「俺の能力を疑っているのですか?」

「疑いというよりは、確認でございます」紬は手を胸の前で組み合わせた。「記憶を映し出す力は諸刃の剣。使い方を誤れば、人の心を深く傷つけることもございます」

 朔夜は昨夜の山田老人のことを思い出した。確かに、記憶を蘇らせることで救われることもあれば、忘れていたかった痛みを呼び起こしてしまうこともあるだろう。

「それに」紬は続けた。「昨夜、あなた様の影絵に忘却獣の影が現れたとか」

「それは俺が呼んだわけじゃない」

「存じております」紬の表情が僅かに和らいだ。「ですが、忘却獣があなた様の能力に引き寄せられたのは事実。つまり、あなた様の力は忘却獣にとって何らかの意味を持つということでございます」

 老師が石台の古書を開いた。そこには古い文字で記された文章と、不思議な図形が描かれている。

「この書には、記憶を扱う能力者と忘却獣に関する古い記録がある」老師は指で文字を追いながら言った。「記憶を映し出す者は、時として記憶の境界を曖昧にする。その隙に忘却獣が入り込むのだ」

 朔夜は図形を見つめた。それは複雑に絡み合った線で構成され、まるで迷路のようにも見える。しかし、よく見ると人の脳の形に似ていることに気づいた。

「これは記憶の地図でございます」紬が説明した。「人の記憶は単純に積み重なっているのではなく、複雑に絡み合い、時には他の記憶と融合したりもします。影絵師の能力は、この複雑な構造に直接触れるもの」

「だからこそ危険でもある」老師が付け加えた。「記憶の境界を誤って破ってしまえば、忘却獣の侵入を許すことになる」

 朔夜は自分の能力に対する認識が甘かったことを悟った。ただ記憶を映し出すだけだと思っていたが、実際にはもっと深く、複雑な力なのだ。

「では、俺はどうすればいいのですか?」

 紬と老師は顔を見合わせた。そして紬が口を開く。

「まずは、正しい記憶の扱い方を学んでいただく必要がございます」紬は石台の上から小さな鈴を取り上げた。「そして、忘却獣との戦い方も」

「戦い方?」

「忘却獣は放置しておけば、どんどん記憶を食い荒らしていきます」紬の声に強い意志が込められた。「昨夜現れた個体は、まだ幼いもの。しかし、記憶を食べて成長すれば、より強大な存在になってしまいます」

 老師が古書の別のページを開いた。そこには巨大な影のような生物が描かれており、その周囲には記憶を失って茫然とした人々の姿があった。

「成熟した忘却獣は、街全体の記憶を食い尽くすこともある」老師は重々しく言った。「そうなれば、人々は自分が誰なのか、何をしていたのかも分からなくなってしまう」

 朔夜は背筋に寒気を感じた。もし街の人々が皆、記憶を失ってしまったら。家族の顔も、大切な思い出も、全てが失われてしまう。

「俺が、俺の能力が忘却獣を呼び寄せてしまったのなら」朔夜は拳を握りしめた。「俺がなんとかしなければならない」

 紬の瞳に僅かな驚きが浮かんだ。それは朔夜の責任感の強さに対する、意外だという表情だった。

「責任を感じていらっしゃるのですね」

「当然です。俺の力が関わっている以上、俺が解決すべき問題だ」

 紬は静かに微笑んだ。それは朔夜を試していた時の警戒した表情とは全く違う、温かな笑顔だった。

「椿野様の仰る通り、心根の優しい方のようでございますね」

 老師も満足そうに頷いた。

「ならば、紬よ、朔夜に記憶守護の基本を教えてやってくれ」

「承知いたしました」紬は朔夜に向き直った。「夕凪様、これより私があなた様の修行の指導をさせていただきます。記憶の番人として、そして」少し頬を染めて「同じ目的を持つ仲間として」

 朔夜は紬の真摯な瞳を見つめ返した。彼女の中に、記憶に対する深い愛情と、それを守り抜こうとする強い意志を感じ取った。

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 握手を交わした時、朔夜は紬の手が思いのほか温かいことに気づいた。そして同時に、彼女の手の平に小さな傷跡があることも。

「これは?」

 紬は慌てて手を引っ込めた。

「昔、忘却獣と戦った時の傷でございます」

「忘却獣と戦ったことがあるんですか?」

「一度だけ」紬の表情に影が差した。「三年前のことです。まだ私が能力を制御できずにいた頃、小さな忘却獣に遭遇いたしました」

 老師が深く溜息をついた。

「あの時は危険だった。紬一人では対処しきれなかった」

「でも、今は違います」紬は凛とした表情を取り戻した。「私の能力も、意志も、あの頃より遥かに強くなりました」

 朔夜は紬の横顔を見つめた。彼女の若い顔に刻まれた決意の深さに、自分も負けてはいられないという気持ちが湧いてくる。

 その時、地下室の空気が急に冷たくなった。鈴が微かに鳴り始め、紬の表情が緊張に変わる。

「来ます」紬が小さく呟いた。「忘却獣が、この近くに」

 朔夜は身構えた。昨夜見た金色の瞳が脳裏に蘇る。

「どこに?」

「上です」紬は天井を見上げた。「書店の中に入り込んでいるようです」

 三人は階段を駆け上がった。書店に戻ると、先ほどまでの静寂が嘘のように、本棚の間から不気味な唸り声が聞こえてくる。そして、薄暗い店内に金色の光がゆらめいていた。

第2話 記憶の番人 - 影絵師と零れ落ちる記憶 | 福神漬出版