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影絵師と零れ落ちる記憶

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蒼い影

夜想 遥 | 2026-03-24

蒼い夕暮れが霞ヶ丘市を包み始めた頃、朔夜は古風な着物姿の少女と向き合っていた。椿野書房の前で突然現れた彼女は、まるで時代から取り残された絵画のような美しさを湛えていた。

「貴方が、影絵師の血を引く者ですね」

 少女の声は鈴を転がすように澄んでいた。朔夜は無言で頷く。彼女の瞳には、古い記憶の深淵を覗き込むような不思議な光が宿っていた。

「わたくしは織部紬と申します。記憶を守護する一族の末裔として、貴方にお願いがございます」

「記憶を守護する一族……」

 朔夜は先ほど老師から聞いた言葉を反芻した。紬は深く頭を下げる。

「市立美術館で奇怪な事件が起きております。展示された絵画を見た者たちが、次々と大切な記憶を失っているのです。どうか、お力をお貸しください」

 朔夜の脳裏に、病院で出会った記憶を失った老人の姿が蘇った。あの時と同じような現象が、今度は美術館で起きているのだろうか。

「分かった。見に行こう」

 二人は夕闇の中を歩いた。紬は朔夜の隣を静かについてくる。時折、街角で立ち止まっては何かを確認するような仕草を見せた。

「何を探しているんだ?」

「忘却獣の痕跡です。あの者たちは記憶を食らう際、独特の残り香を残します」

 紬の表情が曇る。彼女の警戒心が朔夜にも伝染し、二人の足音は次第に慎重なものになった。

 市立美術館は古い洋館を改装した建物で、蔦に覆われた外壁が夕闇に溶け込んでいた。入口付近には「臨時休館」の札が掛けられている。

「裏口から入りましょう」

 紬は慣れた様子で建物の裏手に回る。古い木製の扉の前で、彼女は懐から小さな鈴を取り出し、軽く振った。澄んだ音色が夜気に響くと、扉の錠が音もなく開いた。

「記憶番人の特権です」と紬が小さく微笑む。

 館内は薄暗く、足音だけが響いた。展示室に入ると、壁に掛けられた数枚の絵画が目に入る。どれも抽象的な作品で、見る者の心を不安にさせる何かがあった。

「この絵を見た人たちが記憶を失った?」

「はい。特にあちらの作品を見た方が……」

 紬が指差したのは、奥の壁に掛けられた一枚の絵だった。蒼い絵の具で描かれた渦巻き状の模様が、まるで生き物のように蠢いて見える。朔夜がその絵に近づこうとした時だった。

「ようやく来ましたね、影絵師さん」

 突然響いた声に、二人は振り返った。展示室の入口に、見知らぬ男性が立っている。年齢は二十代半ばか、整った顔立ちと長い黒髪が印象的だった。しかし、その美しい外見とは裏腹に、男の瞳には氷のような冷たさが宿っていた。

「貴方は……」

 紬の声が震えている。男はゆっくりと歩みを進めた。

「黒羽憂と申します。記憶というものに、深い関心を持つ者です」

 憂と名乗った男の周囲に、薄い霧のようなものが立ち上り始めた。朔夜は本能的に危険を察知し、紬の前に出る。

「君が忘却獣を操っている黒幕か」

「操るなどと、人聞きの悪い」憂は微笑んだが、その笑みには温かみがまったくなかった。「私はただ、不要な記憶を整理しているだけです。人間は余計な記憶を抱えすぎている。それらを取り除いてあげることで、より純粋な存在になれるのです」

「記憶は人の魂そのもの」紬が毅然として言った。「それを奪う権利など、誰にもありません」

「魂?」憂は愉快そうに笑った。「記憶など、所詮は脳の電気信号に過ぎません。消去することで、人は苦痛から解放される。私がしているのは慈悲の行為なのです」

 朔夜は憂の言葉に怒りを覚えた。病院で出会った老人の絶望的な表情を思い出す。記憶を失うことがどれほど残酷なことか、この男は理解していない。

「あんたのしていることは破壊だ」

「破壊?」憂の瞳が細められた。「では、試してみましょうか。記憶を失うことが本当に不幸なことなのかどうか」

 憂が手を上げると、蒼い絵画から霧が溢れ出した。その霧の中に、忘却獣の影がちらつく。朔夜は慌てて影絵の術を発動させようとしたが、憂の動きの方が早かった。

「貴方の大切な記憶から、いただきましょう」

 霧が朔夜を包み込もうとした瞬間、紬が前に出た。彼女の持つ鈴が激しく鳴り響き、清浄な音色が霧を払った。

「朔夜さん、今のうちに!」

 朔夜は紬に支えられながら、影絵の術を展開した。壁に映し出されたのは、憂の記憶の断片だった。しかし、そこに映ったのは朔夜が予想していたものとはまったく違っていた。

 幼い憂が泣きながら誰かを探している映像。繰り返される記憶の中で、少年は次第に表情を失っていく。そして最後に映ったのは、記憶を失って虚ろな目をした憂の姿だった。

「これは……」

 憂の表情が初めて動揺を見せた。自分の記憶が暴かれたことへの驚きが、その美しい顔を歪める。

「なるほど、面白い能力ですね。しかし」憂は再び冷静さを取り戻した。「今日のところは退散しましょう。次に会う時は、もう少し準備を整えてから参りますよ」

 憂の姿が霧と共に薄れていく。朔夜は追いかけようとしたが、紬に制止された。

「無理をしてはいけません。あの方は我々が思っている以上に危険な存在です」

 憂が消えた後、展示室には静寂が戻った。蒼い絵画も普通の抽象画に見える。しかし、朔夜の心には憂の記憶の映像が焼き付いていた。

「あいつも記憶を失った被害者なのか?」

「分かりません。ですが、記憶を失った痛みを知る者が、なぜ同じ痛みを他者に与えるのでしょうか」

 紬の疑問は朔夜の胸にも重くのしかかった。憂の行動には、単純な悪意以上の何かがある。そして、彼が最後に見せた動揺は、まだ完全には諦めていない何かがあることを示していた。

 美術館を後にしながら、朔夜は祖父の手帳を握りしめた。影絵師としての使命と、憂という謎に満ちた敵の存在。これから待ち受ける戦いの予感に、夜風が一層冷たく感じられた。

「朔夜さん」紬が振り返る。「明日、わたくしの家にいらしてください。記憶番人として、お伝えしなければならないことがあります」

 朔夜は頷いた。憂との邂逅は、新たな謎の始まりに過ぎない。彼の瞳に宿っていた深い闇の正体を知るためにも、朔夜は記憶の世界により深く踏み込んでいかなければならなかった。

第5話 蒼い影 - 影絵師と零れ落ちる記憶 | 福神漬出版