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影絵師と零れ落ちる記憶

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古書店の賢者

夜想 遥 | 2026-03-23

霞ヶ丘市の旧市街、石畳の路地を抜けた角に、その古書店はひっそりと佇んでいた。看板には薄れかけた文字で「椿野書房」とあり、格子戸の奥から古い紙の匂いが漂ってくる。朔夜は重い木の扉を押し開けた。

 鈴の音が店内に響く。天井まで届く本棚には、背表紙の色褪せた書物がぎっしりと並んでいる。埃が舞い踊る午後の光が、窓から斜めに差し込んでいた。

「やあ、朔夜君。君が来ることは分かっていたよ」

 奥の方から、穏やかな声がかけられた。カウンターの向こうに座っていたのは、白髪を後ろで束ねた初老の男性だった。細い体躯に古風な着物を纏い、丸眼鏡の奥の目は慈愛に満ちている。

「椿野老師」

 朔夜は軽く頭を下げた。この男性のことは以前から知っていた。この街で記憶にまつわる不思議な現象が起こるたびに、必ず名前が囁かれる人物だった。

「忘却獣のことで悩んでいるのだろう?」

 老師は湯呑みに茶を注ぎながら言った。朔夜の驚く様子を見て、小さく笑う。

「この街で記憶に関わる異変が起これば、すぐに察知できるのでね。君の影絵師としての力も、もちろん感じ取っていた」

「影絵師......」

 朔夜は呟いた。自分の能力にそんな名前があることすら知らなかった。

「そうだ。君は記憶を影絵として映し出す、古い血筋の継承者なのだよ」

 老師は本棚から一冊の分厚い書物を取り出した。革装丁の表紙には、複雑な文様が金糸で刺繍されている。

「『記憶継承録』。この街に伝わる、記憶の守護者たちの歴史が記された書物だ」

 朔夜は恐る恐るページをめくった。古い文字で書かれた文章の間には、不思議な図像が描かれている。影を操る人物、記憶の欠片のような光る粒子、そして——紫の目をした獣のような化け物。

「忘却獣は、記憶そのものを糧とする存在だ」老師の声が続く。「古代から人の世に潜み、大切な記憶を食らい続けてきた。だが同時に、それを阻止する力を持つ者たちも存在した」

「記憶の番人......」

 朔夜は書物の一節を読み上げた。そこには巫女のような装いをした少女の絵が描かれている。

「そうだ。記憶を守護する一族と、記憶を影絵として蘇らせる影絵師の一族。二つの血筋が協力することで、人々の記憶は守られてきた」

 老師は別のページを指差した。そこには複雑な陣形と、影絵師の能力を使った記憶復元の手法が記されている。

「君の能力はまだ未熟だ。昨夜、忘却獣に遭遇した時も、完全な記憶の復元はできなかったはずだ」

 朔夜は頷いた。確かに、被害者たちの記憶を映し出そうとしても、断片的にしか見ることができなかった。

「記憶というものは、単なる過去の出来事ではない」老師は茶を一口すすって続けた。「それは魂そのものの一部なのだ。だからこそ、影絵師は相手の心に深く潜り、その人の本質と向き合わなければならない」

 老師は立ち上がり、店の奥へと向かった。朔夜も後に続く。薄暗い廊下の先には、蝋燭が灯された小さな部屋があった。壁一面に、様々な時代の影絵師たちの肖像画が飾られている。

「君の祖父もまた、優れた影絵師だった」

 老師が指差したのは、朔夜とよく似た面立ちの青年の肖像画だった。

「祖父が......」

「彼は十七年前、この街を襲った大規模な記憶消失事件で命を落とした。その時、多くの人々の記憶を守るために、自らの記憶を犠牲にしてまで戦ったのだ」

 朔夜の胸に、なんともいえない感情が込み上げてきた。自分の能力の起源、そして背負うべき使命の重さを、ようやく理解し始めていた。

「しかし、君にはまだ時間がある」老師は振り返った。「正しい訓練を積めば、必ず忘却獣に立ち向かえる力を身につけられる」

 二人は再び店内に戻った。老師は別の書物を開き、影絵師の基本的な技法について説明を始めた。

「まずは、自分自身の記憶と向き合うことから始めよう。他人の記憶を扱う前に、自らの記憶を完全に制御できなければならない」

 朔夜は言われた通り、目を閉じて意識を集中させた。幼い頃の記憶が、まるで古いフィルムのように脳裏に浮かび上がってくる。

「そうだ。今度は、その記憶を影絵として映し出してみなさい」

 朔夜は手を前に差し出した。指先から微かな光が漏れ、壁に朧げな影が映し出される。それは幼い朔夜が公園で遊んでいる姿だった。

「よくできた」老師は満足そうに頷いた。「君の才能は確かに本物だ。だが、これはまだ始まりに過ぎない」

 夕方が近づき、店内に橙色の光が差し込んできた。朔夜は椿野老師から多くのことを学んだが、同時に自分の無力さも痛感していた。

「老師、忘却獣を操っている者がいるのではないでしょうか」

 朔夜の問いに、老師の表情が一瞬曇った。

「その通りだ。忘却獣は本来、衝動的に記憶を食らう存在に過ぎない。だが最近の事件は、あまりにも計画的すぎる」

「計画的?」

「忘却獣が狙う記憶に、一定の法則性がある。初恋、家族との思い出、大切な人との約束......人の心の支えとなるような、特に価値の高い記憶ばかりを選んで食らっている」

 老師は書物のページをめくりながら続けた。

「これは自然な捕食行動ではない。何者かが意図的に、人々の心を破壊しようとしているのだ」

 朔夜の脳裏に、昨夜公園で遭遇した忘却獣の紫の瞳が浮かんだ。あの試すような眼差しには、確かに知性が宿っていた。

「その操り主を見つけ出し、阻止しなければならない」老師の声に、静かな決意が込められていた。「そのためにも、君の力が必要なのだ」

 店を出る時、老師は朔夜に一冊の小さな手帳を渡した。

「これは記憶術の基本が記されたものだ。毎日少しずつでも練習を続けなさい。そして、何か異変を感じたら、すぐに知らせるのだ」

 朔夜は深く頭を下げた。混乱していた心に、ようやく一筋の光明が差し込んできたような気がした。

 石畳の路地を歩きながら、朔夜は手帳をそっと胸に抱いた。自分が影絵師の血を引く者であること、記憶を守る使命を背負っていること、そして忘却獣の背後に黒幕が存在すること。すべてが急速に現実味を帯びてきた。

 街の向こうに夕日が沈もうとしている。いつもの平穏な風景のはずなのに、今日は何か違って見えた。路行く人々の表情に、記憶を失った者特有の虚ろさを見つけてしまう。

 その時、角の向こうから美しい少女の姿が現れた。深い藍色の着物を纏い、長い黒髪を風に靡かせている。朔夜は思わず足を止めた。

 少女もまた朔夜に気づき、静かに近づいてきた。古風な美しさの中に、強い意志の光が宿っている。

「貴方様が......影絵師の」

 少女の声は鈴の音のように清らかだった。朔夜は直感した。この少女こそが、記憶の番人の血を引く者なのだと。

第4話 古書店の賢者 - 影絵師と零れ落ちる記憶 | 福神漬出版