朝の陽光が古い看板を照らし、青嵐食堂の一日が始まった。颯太は昨夜のグランドとの出会いを思い返しながら、いつもより軽やかな足取りで厨房に立っていた。あの古代ドラゴンの言葉が、まだ心の奥で温かく響いている。
「特別な力、か」
小さく呟きながら包丁を握ると、不思議と手に馴染む感覚があった。以前のような重さはもうない。むしろ、これから何を作ろうかという期待に胸が躍る。
開店準備をしていると、奥の扉がそっと開いた。
「おはよう、颯太」
リリアが控えめに顔を覗かせる。森の朝露を思わせる清々しい香りが店内に漂った。
「おはよう、リリア。今日も早いね」
「あの、昨日のお礼をちゃんと言いたくて」
リリアは頬を薔薇色に染めながら、小さな巾着袋を差し出した。中からは美しい青色の粉末が見える。
「これは森のハーブソルト。魔力で育った薬草から作ったの。お料理に使って」
「ありがとう。大切に使わせてもらうよ」
颯太が微笑みかけると、リリアの表情がぱっと明るくなった。
その後も、リリアは遠慮がちに店の隅に座り、颯太の料理する姿を嬉しそうに眺めていた。昼前には小さくなったグランドも現れ、カウンター席で威厳を保ちながらも目を細めて湯気の香りを楽しんでいる。
「今日のメニューは何だ、颯太よ」
「シンプルに親子丼を作ろうと思って。リリアにもらったハーブソルトを少し効かせてみるよ」
「ほう、異世界の香辛料か。興味深い」
グランドの瞳が期待に輝く。一方のリリアは、自分が提供した材料が料理に使われることに小さく手を合わせて喜んでいた。
颯太は鶏肉を一口大に切りながら、この穏やかな時間を噛み締めていた。つい一週間前までは一人きりで重い沈黙に包まれていた食堂が、今では温かな笑い声と会話で満たされている。
「お兄ちゃん、元気にしてる?」
表の戸が勢いよく開き、明るい声が響いた。咲良だった。颯太の妹で管理栄養士をしている彼女は、兄を心配して時々顔を出してくれる。
「咲良、どうしたんだ急に」
「どうしたもこうしたもないでしょ。最近連絡が途絶えがちだから心配になって」
咲良は店内を見回し、リリアとグランドの存在に気づいた。ただし、グランドは魔法で普通の小さな老人に見えるはずだ。
「あら、お客さんがいらっしゃったのね。失礼しました」
咲良が頭を下げると、リリアは慌てたように立ち上がった。
「い、いえ、こちらこそ」
その様子を見て、咲良は意外そうな表情を浮かべた。兄の食堂に若い女性の客がいること、そして颯太の表情がここ数ヶ月で一番明るいことに気づいたのだ。
「お兄ちゃん、紹介して」
「ああ、えっと」
颯太は少し慌てた。異世界の存在について説明するわけにはいかない。
「リリアさんと、グランドさん。最近常連になってくれたお客さん」
「初めまして、咲良です。兄がいつもお世話になっています」
咲良の人懐っこい笑顔に、リリアは緊張しながらも小さく微笑み返した。グランドは威厳を保ちながら頷いている。
「それにしても、お兄ちゃんの表情が全然違う」
咲良は厨房に立つ颯太を見つめながら呟いた。
「最近すごく生き生きしてる。やっぱりお客さんがいると違うのね」
颯太は親子丼を完成させながら、妹の言葉に複雑な気持ちになった。確かに変化はあった。でもそれは単にお客が来たからではない。料理を通じて心を通わせることの喜びを、改めて思い出したからだ。
「はい、できました」
三つの丼を運んでいく。リリアのものには控えめにハーブソルトを効かせ、グランドのものはやや濃い目の味付けに、そして咲良のものはいつものように優しい味に仕上げた。
「わあ、美味しそう」
咲良が箸を持つ手を止めて、感嘆の声を上げた。
「お兄ちゃん、盛り付けが丁寧になってる」
言われてみれば確かにそうだった。以前は作業的に盛りつけていたが、今は食べる人の顔を思い浮かべながら一つ一つ丁寧に仕上げている。
一口食べた咲良の目が大きく見開かれた。
「これ、本当にお兄ちゃんが作ったの?」
「失礼だな」
「そうじゃなくて、前より格段に美味しくなってる。何か変わった?」
颯太は視線をリリアとグランドに向けた。二人とも黙って料理を味わっているが、その表情は満足そうだ。
「うん、少し変わったかな。お客さんが喜んでくれる顔を見るのが嬉しくて」
咲良は兄の表情を見つめ、安堵したように微笑んだ。
「良かった。お兄ちゃんが料理を好きだった頃の顔に戻ってる」
食事が終わると、リリアとグランドは連れ立って奥の扉へ向かった。
「また明日来るね、颯太」
「うむ、また頼む」
二人が去った後、咲良は興味深そうに奥の扉を見つめていた。
「あの扉、前からあったっけ?」
「ああ、倉庫への入口だよ」
嘘ではない。ある意味では異世界も広大な倉庫のようなものだから。
「そっか。それにしても、あの二人、なんだか不思議な雰囲気ね」
「そうか?」
「うん、特に女の子の方。すごく上品で、でもどこか別世界の人みたい」
咲良の直感は鋭い。颯太は内心冷や汗をかいた。
「きっと育ちがいいんだろう」
「そうかもね。あ、そういえば」
咲良が思い出したように手を打った。
「来週の土曜日、時間ある?料理教室の生徒さんたちが、プロの料理を見学したいって言ってるの。お兄ちゃんでよければお願いしたいんだけど」
以前なら即座に断っていただろう。でも今は違った。
「いいよ。何人くらい?」
「本当?嬉しい!五、六人だと思う」
咲良の嬉しそうな顔を見ていると、颯太も自然と笑顔になった。
「でも一つだけ条件がある」
「何?」
「その日は普段のお客さんも来るかもしれないから、そちらを優先させてもらう」
颯太の頭には、リリアとグランドの顔があった。二人にとってここは大切な居場所になりつつある。それを大事にしたい。
「もちろん!お兄ちゃんがそう言ってくれるなんて、本当に変わったのね」
咲良は感動したように兄を見つめた。
「前のお兄ちゃんなら、お客さんのことより技術の完璧さを重視してたもの」
颯太は複雑な気持ちになった。確かに以前の自分は、料理の技術にばかり固執していた。でも今は違う。食べる人の笑顔こそが、料理の本当の価値だと気づいた。
夕方、咲良が帰った後、颯太は一人店内を片付けながら今日一日を振り返った。妹に心配をかけていたことを改めて実感し、同時に自分の変化を客観的に見つめることができた。
奥の扉から微かに風の音が聞こえてくる。あの向こうには広大な異世界が広がっていて、新しい出会いが待っているのかもしれない。
颯太は明日への期待を胸に、最後の皿を拭き上げた。青嵐食堂の新しい日常が、確かに始まろうとしていた。