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消えた恋人への手紙

星野 宙音 | 2026-03-22

軌道エレベーターの中央ターミナルに響く機械音が、いつもより重苦しく感じられた。配達員専用のラウンジで次の依頼を待ちながら、蒼太は昨夜のことを思い返していた。ルナが見せてくれた、あの淡い光に包まれた笑顔。人工生命体たちが求めているのは、きっと自分が想像している以上に深いものなのだろう。

「橘蒼太さん、いらっしゃいますか」

 受付カウンターから呼ばれ、蒼太は立ち上がった。そこには見慣れない老人が待っていた。深く刻まれた皺、白髪に覆われた頭、そして何より印象的だったのは、その瞳に宿る静かな悲しみだった。

「私は田村と申します。あなたに、どうしても運んでいただきたい荷物があるのです」

 老人の声は穏やかだったが、どこか切迫したものを含んでいた。蒼太は黙って頷き、詳しい話を聞くために専用の面談室へと案内した。

 密室になった瞬間、老人の表情が一変した。先ほどまでの穏やかさは影を潜め、深い絶望が浮かび上がった。

「実は、私の恋人が月の裏側にある研究施設で働いていたのですが、三日前から連絡が取れなくなりました。施設に問い合わせても、個人情報だからと教えてもらえません」

 老人は震える手でポケットから一通の手紙を取り出した。古風な封筒に、丁寧な文字で宛名が記されている。

「この手紙を、月の裏側のクレーター7-G地区にある『エモーション・リサーチ・ラボ』の研究員、相田美咲に届けていただきたいのです。報酬は通常の五倍お支払いします」

 蒼太は眉をひそめた。エモーション・リサーチ・ラボ——聞いたことのない施設名だった。しかし、「エモーション」という単語が気になった。感情を扱う研究施設なのだろうか。

「なぜ直接連絡を取らないのですか」

「通信回線が全て遮断されているんです。きっと極秘の研究をしているのでしょう。でも、美咲は必ずそこにいるはずです。この手紙を渡してもらえれば、彼女がどんな状況にあるのかも分かるかもしれません」

 老人の説明には矛盾があった。恋人の安否を心配しているのに、なぜ自分で確かめに行かないのか。そして、五倍もの報酬を払う理由は何なのか。

 だが、老人の瞳に映る悲しみは本物だった。蒼太は長年の経験で、人の感情の真偽を見抜く術を身につけていた。この老人は確実に、誰かを深く愛し、そして失うことを恐れている。

「分かりました。お引き受けします」

 契約を交わした後、老人は安堵の表情を浮かべて去っていった。一人残された蒼太は、手紙を見つめながら違和感の正体を探ろうとした。封筒の材質、インクの色、文字の書き方——全てが現代的でありながら、どこか時代錯誤な印象を与えた。

 準備を整えて宇宙港へ向かう途中、蒼太は昨日別れたばかりのルナと再び遭遇した。彼女は相変わらず淡い光を纏いながら、好奇心に満ちた表情で蒼太を見つめていた。

「今度はどちらまで?」

「月の裏側だ。君には危険かもしれない」

「私も行きたい。人間の感情について、もっと学びたいの」

 ルナの申し出に、蒼太は一瞬躊躇した。しかし、今回の依頼には何か普通でない要素が含まれている気がした。もしものときに、感情を物質化できるルナがいれば心強いかもしれない。

「いいだろう。ただし、私の指示には必ず従ってくれ」

 小型宇宙船『ステラー・ウィンド』のコクピットで、蒼太は月の裏側への航路をセッティングした。地球から月の裏側へ直接向かうルートは、通常の配達では使われることが少ない。通信の電波も届きにくく、何かあったときの救助も困難な宙域だった。

「ねえ、その手紙から、とても複雑な感情を感じる」

 ルナが突然口を開いた。彼女は手紙の入った配達ボックスを見つめながら、困惑したような表情を浮かべている。

「複雑な感情?」

「愛情と悲しみと……それから、恐怖。でも、恐怖の質が変なの。普通の人間が抱く恐怖とは違って、もっと深くて、暗い」

 ルナの言葉に、蒼太の警戒心が高まった。人工生命体である彼女が感情を読み取れるということは、その手紙に何らかの感情エネルギーが込められているということだ。

 月の裏側が視界に入った頃、船の通信システムに異常な電波をキャッチした。規則正しいパルス音が、まるで救難信号のように響いている。

「座標を確認する」

 蒼太が計器を調べると、電波の発信源は目的地であるクレーター7-G地区付近だった。しかし、地図上にエモーション・リサーチ・ラボの表示はない。

「おかしい。この地区には研究施設の記録がない」

「でも、確実に何かがあるわ。感情エネルギーの濃度が異常に高いの」

 ルナの警告と共に、船体が軽い振動に包まれた。まるで巨大な感情の渦に巻き込まれているかのような、奇妙な感覚だった。

 クレーターの縁に着陸した蒼太とルナは、宇宙服を着用して月面に降り立った。地図上では何もないはずの場所に、確かに建物らしき構造物が存在していた。しかし、その建物は廃墟と化しており、明かりひとつ灯っていない。

「本当にここに人がいるのか?」

 建物に近づくにつれて、ルナの光が次第に不安定になっていった。彼女の表情には明らかな動揺が浮かんでいる。

「ここの感情エネルギー、とても歪んでいる。愛情が憎悪に変わって、悲しみが怒りになって……まるで感情が腐敗しているみたい」

 建物の入り口で、蒼太は愕然とした。扉の脇に取り付けられたプレートには、確かに「エモーション・リサーチ・ラボ」と記されていたが、その文字は風化し、施設が長い間放置されていることを物語っていた。

 内部に足を踏み入れると、研究設備らしき機械が散乱している光景が広がった。そして、最奥の部屋で、蒼太は信じがたいものを目にした。

 机の上に、一枚の写真が置かれている。そこに写る若い女性の隣には、見覚えのある顔があった。数十年若いころの、依頼人である老人の姿だった。

「これは一体……」

 写真の裏には、日付が記されていた。『2057年7月15日』——三十年も前の日付だった。

 その瞬間、ルナが悲鳴を上げた。彼女の体が激しく光り、まるで何かに怯えているかのように震えている。

「この施設で何かが起きた。とても強い絶望と憎悪が……まだここに残ってる」

 蒼太は手紙を見つめ直した。依頼人の老人は一体何者なのか。そして、この廃墟と化した研究施設で、三十年前に何が起こったのか。

 月の裏側の静寂の中で、二人を包み込む謎は深まるばかりだった。

第2話 消えた恋人への手紙 - 星降る夜の配達屋 | 福神漬出版