潮騒の商会と七つの海に戻る

潮騒の商会と七つの海

3

港の異邦人

潮見 航 | 2026-03-22

朝靄が港を包む中、蒼一郎は父の残した商会の書類を抱えて埠頭を歩いていた。祖父龍之介の航海日誌に記された七つの印章の謎は、一夜明けても彼の心から離れることはなかった。港には既に多くの船が停泊し、東洋と西洋が入り混じった活気ある声が響いている。

「やはり海を見ていると、祖父の気持ちが少し分かるような気がする」

 蒼一郎は海堂商会が管理する第三埠頭へ向かった。ここで荷役作業の監督をしながら、父が築いた航路の現状を把握するのが今日の目的だった。しかし、倉庫の前で足を止めた彼の目に、奇妙な光景が飛び込んできた。

 西洋人の船員風の男が、日本人の港湾労働者たちと何やら激しく議論を交わしている。だが、その「男」の動きには、どこか違和感があった。体つきは確かに細身だが、声の調子や仕草に不自然さを感じたのだ。

「すみません、何かお困りですか」

 蒼一郎が近づくと、その西洋人が振り返った。瞬間、彼は息を呑んだ。短く刈り込まれた金髪の下から現れた顔は、紛れもなく女性のものだった。だが、その瞳には男性顔負けの強い意志の光が宿っている。

「あなたは日本の方ですね。英語はお分かりになりますか」

 流暢な英語で話しかけられ、蒼一郎は頷いた。

「ええ、多少は。私は海堂商会の海堂蒼一郎と申します。こちらは弊社の管理する埠頭ですが」

「海堂商会!」女性は目を輝かせた。「それは幸運です。私はマリア・クロフォードと申します。実は、船員として雇ってくださる船会社を探しているのです」

 蒼一郎は改めてマリアを見つめた。確かに船員の服装をしているが、その立ち振る舞いからは上流階級の教養がにじみ出ている。

「失礼ですが、お嬢さん」

「お嬢さん?」マリアは眉をひそめた。「私は船員です。性別は関係ありません」

「しかし、なぜ男装を」

 マリアの表情が一瞬曇った。しかし、すぐに毅然とした表情を取り戻す。

「私には夢があります。七つの海を自分の目で見て、自分の手で航海したいのです。しかし、女性というだけで船に乗せてもらえない。だから、こうするしかないのです」

 その言葉に、蒼一郎は祖父の航海日誌を思い出した。七つの海――偶然の一致だろうか。

「七つの海、ですか」

「ええ。北大西洋、南大西洋、北太平洋、南太平洋、インド洋、北極海、南極海。この全てを航海することが私の夢なのです」

 マリアの瞳が遠くを見つめる。そこには、蒼一郎がこれまで出会ったことのない、純粋で強烈な情熱があった。

「ところで、クロフォードという姓は」

「ええ、英国の貴族です。しかし、私は家族の決めた結婚も、社交界の退屈な生活も望みません。自分の人生は自分で決めたいのです」

 港の喧騒の中で、二人の会話は続いた。蒼一郎は、マリアの航海に対する知識の深さに驚かされた。風の読み方、潮の流れ、星座による航海術――彼女の口から出る言葉は、単なる憧れではなく、確実な技術に裏打ちされていた。

「どこでそのような知識を」

「父の書斎にあった航海術の書物を読み漁りました。そして、密かにロンドンの船乗りたちから実践を学んだのです」マリアは誇らしげに答えた。「理論だけでなく、実際に小さな船を操縦した経験もあります」

 蒼一郎は感嘆した。目の前の女性は、社会の常識を打ち破ってでも夢を追い求める意志の強さを持っている。それは、商会の発展ばかりを考えていた自分には欠けていたものかもしれない。

「海堂さん、もしよろしければ、私を雇っていただけませんでしょうか。給料は他の船員の半分でも構いません。ただ、船に乗せてください」

 マリアの懇願する声に、蒼一郎は心を動かされた。しかし、現実的な問題もある。

「お気持ちは分かりますが、弊社の船員たちがどう反応するか」

「それなら、私が証明してみせます」

 マリアは突然、近くに停泊していた小さな帆船を指した。

「あの船をお借りできれば、私の腕前をお見せします。風向きから察するに、今日は絶好の航海日和です」

 蒼一郎は迷った。目の前の女性の情熱は本物だが、万が一事故でも起これば、海堂商会の責任問題になる。だが、マリアの瞳の奥にある、海への純粋な愛情を見ていると、断り切れない自分がいた。

「分かりました。ただし、私も同行させてください」

「本当ですか!」

 マリアの顔が一気に明るくなった。その瞬間、男装をしていても隠しきれない、美しい笑顔が現れた。

 二人は小さな帆船に乗り込んだ。マリアは慣れた手つきで帆を調整し、舵を取った。船が港を離れると、彼女の動きは一層洗練されたものになった。

「風が北東から吹いています。この風を利用して、あの岩礁の間を抜けてみます」

 蒼一郎は、マリアの航海術の確かさに驚嘆した。彼女は風と波を読み、まるで海と対話するかのように船を操っていた。これほどの技術を持った女性に、今まで出会ったことがない。

「素晴らしい技術ですね」

「ありがとうございます。海の上にいると、私は本当の自分になれる気がするのです」

 マリアの横顔を見つめながら、蒼一郎は思った。この女性との出会いは、単なる偶然ではないのかもしれない。祖父の残した七つの印章の謎を解く鍵が、彼女の持つ航海への情熱にあるような気がしてならなかった。

 船が港に戻ると、埠頭には見慣れない男が立っていた。黒いフロックコートに身を包んだその男は、鋭い眼光で蒼一郎たちを見つめている。

「あの人は?」マリアが小声で尋ねた。

「分かりません。しかし、ただの見物人ではないようですね」

 男は蒼一郎たちが船から降りると、近づいてきた。

「海堂商会の若旦那でいらっしゃいますね。私は黒崎と申します。お話があります」

 黒崎の声には、有無を言わせない迫力があった。蒼一郎は直感的に、この男が何か重大な情報を持っていることを感じ取った。

「どのようなお話でしょうか」

「お祖父様の残された『七つの契約』について、です」

 蒼一郎の心臓が跳ね上がった。昨夜発見したばかりの秘密を、なぜこの男が知っているのか。

「一体、何者です」

「それは改めてお話ししましょう。しかし、お気をつけください。その契約を狙っている者が他にもいます」

 黒崎はそう言い残すと、人混みの中に消えていった。蒼一郎とマリアは、困惑したまま取り残された。

「海堂さん、七つの契約とは何のことですか」

 マリアの問いかけに、蒼一郎は答えに窮した。まだ彼女を完全に信用していいのか分からない。しかし、この出会いが偶然ではないような気がしてならなかった。

 夕日が港を染める中、蒼一郎は大きな決断を下した。一人では解けない謎も、仲間がいれば道が開けるかもしれない。そして、マリアの航海への情熱は、きっと祖父の理想と通じるものがあるはずだった。

第3話 港の異邦人 - 潮騒の商会と七つの海 | 福神漬出版