ハドソン商会の重厚な応接室で、老会長ジェイムズ・ハドソンの話を聞く蒼一郎たちの表情は、次第に驚きの色を深めていった。窓の外には摩天楼がそびえ立ち、ハドソン川を行き交う船の汽笛が響いている。
「第七の契約は、確かにここに保管されています」
ハドソンは立ち上がると、部屋の奥にある金庫へと向かった。厚い鉄の扉が開かれ、中から取り出されたのは見慣れた赤い革の契約書入れだった。
「しかし、海堂さん。この契約は他の六つとは大きく異なるのです」
老人の声には重い響きがあった。蒼一郎は身を乗り出し、マリアも緊張した面持ちで見つめる。鯨岡は太い腕を組み、明華は鋭い視線を契約書に注いでいた。
「どのように異なるのでしょうか」
蒼一郎の問いに、ハドソンは深いため息をついた。
「これは単なる貿易契約ではありません。南北戦争後のアメリカ復興事業に関する、極めて重要な取り決めなのです。あなたの祖父、海堂龍之介翁は、戦争で荒廃した南部の綿花プランテーションを復活させ、同時に元奴隷たちの生活基盤を築く事業に出資していました」
契約書が開かれると、そこには複雑な図面と文書が記されていた。しかし蒼一郎が目を凝らしても、文書の大部分が空白になっている。
「これは……」
「ご覧の通り、契約書は不完全です。龍之介翁の指示により、この契約は七つの部分に分割され、それぞれ異なる場所に保管されているのです」
マリアが英語で書かれた部分を読み上げる。
「『真の平和は、戦争の傷を癒し、すべての人々に希望を与えてこそ実現する』……これは祖父様の言葉ですね」
蒼一郎は頷いた。祖父の理念がここにも息づいているのを感じ取っていた。
「分割された契約書は、どこに隠されているのですか」
明華の鋭い質問に、ハドソンは困惑の表情を浮かべた。
「それが問題なのです。龍之介翁は各地の信頼できる商人に託したと聞いていますが、詳細な場所は私にも分かりません。ただ、手がかりはあります」
老人は別の書類を取り出した。それは古い地図で、七つの港の名前が記されている。
「ニューヨーク、リバプール、ハンブルク、マルセイユ、アレクサンドリア、ムンバイ、そして横浜。これらの港に、契約書の断片が隠されているはずです」
鯨岡が唸り声を上げた。
「なんたる規模だ。まさに世界を股にかけた宝探しじゃないか」
「しかし、なぜ祖父はそのような複雑な仕掛けを作られたのでしょうか」
蒼一郎の疑問に、ハドソンは重々しく答えた。
「恐らく、この契約の重要性があまりにも大きかったからでしょう。単なる商取引を超えた、世界の未来を左右する内容が含まれているのかもしれません」
その時、応接室のドアが勢いよく開かれた。ハドソンの秘書が慌てた様子で駆け込んでくる。
「会長、大変です。黒崎商会の代表団が到着しました。至急面会を求めています」
一同の空気が一瞬で張り詰めた。ハドソンの顔に緊張が走る。
「こんなに早く……まさか、我々の動きを監視していたのか」
窓の外を見下ろすと、豪華な馬車が商会の前に停まっている。黒崎の紋章が刻まれた馬車から、黒いコートを着た男たちが降りてくるのが見えた。
「蒼一郎君、決断の時が来たようですね」
マリアが契約書を見つめながら呟いた。
「七つの断片を集めるのと、黒崎との決着をつけるのと、どちらを優先すべきか……」
蒼一郎は立ち上がり、窓辺に歩み寄った。遥か彼方に自由の女神像が見える。明治の日本から遠く離れたこの地で、祖父の遺志と向き合う時が来たのだ。
「ハドソンさん、黒崎との面会をお受けください。しかし、契約書のことは秘密にしていただけますか」
「もちろんです。しかし、あなた方はどうされるのですか」
蒼一郎は振り返ると、仲間たちを見回した。三人の目には同じ決意の光が宿っている。
「私たちは契約書の断片を探します。黒崎が動き出した以上、時間がありません」
明華が地図を指差した。
「リバプールが最も近いですね。大西洋航路なら一週間程度でしょう」
「待てよ、坊主」鯨岡が口を挟んだ。「黒崎の奴らも同じことを考えているかもしれねえ。罠かもしれねえぞ」
「それでも、やらなければなりません」
蒼一郎の声には迷いがなかった。
「祖父が命をかけて築いた平和への道筋を、今ここで諦めるわけにはいかないのです」
階下から足音が響いてくる。黒崎の一行が建物に入ってきたのだ。
ハドソンは急いで契約書を金庫に戻すと、蒼一郎たちに向き直った。
「裏口から出てください。私の息子が港まで案内します。今日の午後にはリバプール行きの客船が出港します」
「ありがとうございます。必ず契約書を完成させ、平和基金を実現させます」
蒼一郎は深く頭を下げた。マリアも美しい瞳に決意を込めて頷く。
四人は静かに応接室を後にした。廊下の向こうから、黒崎商会の重々しい声が聞こえてくる。買収交渉が始まったのだろう。
裏階段を降りながら、明華が呟いた。
「兄貴、今度は本当の冒険になりそうですね」
「ああ、そうかもしれない」
蒼一郎は前を見据えた。七つの海に散らばった契約書の断片。それを集めることができれば、祖父の真の理念を世界に示すことができるはずだ。
港へ向かう馬車の中で、四人は黙々と次の戦略を練っていた。世界を舞台にした、最後にして最大の挑戦が始まろうとしていた。