大西洋の荒波を越えて二十日余り、蒼一郎らを乗せた汽船がついにニューヨーク港へと滑り込んだのは、秋の午後のことだった。
「これが、新世界か……」
船首に立つ蒼一郎の瞳に、圧倒的な光景が飛び込んできた。横浜港の賑わいなど比較にならぬほど巨大な港湾施設、林立する高層建築物の群れ、そして行き交う無数の船舶。まさに新大陸の玄関口にふさわしい壮大さだった。
「すげぇな、こりゃあ」
隣で呟いた鯨岡の声にも、普段の豪快さに混じって畏敬の念が込められている。船長として世界各地の港を見てきた男でさえ、この光景には素直に驚嘆せざるを得なかった。
「建物が空に向かって伸びていく……まるで天を目指しているようね」
マリアが感嘆の声を漏らす。英国の古き良き街並みとは対照的な、上昇志向に満ちた都市の姿がそこにあった。
「ここが世界の中心になる日も、そう遠くないかもしれませんね」
明華の冷静な分析に、蒼一郎は深く頷いた。この若き国の持つエネルギーは、確かに既存の世界秩序を変える力を秘めている。
入港手続きを終え、一行はマンハッタンの宿に向かった。馬車から見える街の光景は、蒼一郎の想像を遥かに超えていた。石畳の道を行き交う人々は皆、未来への希望に満ちた表情を浮かべている。移民として新天地を求めてきた者、一攫千金を夢見る事業家、様々な出自の人々が混在しながらも、共通して持っているのは前進への意志だった。
「ハドソン商会との面談は明日の午後です。それまでに、この街の情報を集めておきましょう」
宿に荷を置くと、蒼一郎は仲間たちに提案した。第七の契約について分かっているのは、ハドソン商会が何らかの手がかりを握っているということだけ。可能な限り事前に情報を仕入れておく必要があった。
翌朝、四人は手分けして街へ繰り出した。蒼一郎とマリアは商業地区を、鯨岡と明華は港湾地区を回ることにした。
「驚いたのは技術の進歩よ。電話というものが既に実用化されているの」
昼食時に集まったマリアが、興奮気味に報告する。
「港でも蒸気機械がフル活用されていた。荷役の速度が段違いだ」
鯨岡も感心したように語る。明華は手帳に書き込みながら補足した。
「金融制度も発達しています。資本の流れが効率化されているため、事業展開のスピードが速い。これが成長の原動力なのでしょう」
午後になり、一行はウォール街のハドソン商会本社へ向かった。重厚な石造りの建物は、老舗企業としての格式を物語っている。
「海堂商会の皆様ですね。お待ちしておりました」
応接室に通されると、白髪の紳士が立ち上がった。ロバート・ハドソン三世、創業者の孫にあたる現在の社長だった。
「この度は遠路はるばる、ありがとうございます。実は、お話ししたいことが山ほどあるのです」
ハドソンの表情は真剣だった。社交辞令を交わした後、彼は本題に入った。
「まず申し上げたいのは、貴商会の近年の活動ぶりです。七つの契約の再興に取り組まれていることは、我々も注目しておりました」
「ご存知だったのですか」
蒼一郎の問いに、ハドソンは深く頷いた。
「実は、私の祖父もまた、七つの契約の関係者だったのです。具体的には、第七の契約の調印者として」
一同の間に緊張が走った。ついに最後の手がかりに辿り着いたのだ。
「しかし、第七の契約は他とは性質が異なります。これは単なる貿易協定ではありません。海堂商会の創業者が描いた、より大きな理念の集大成なのです」
ハドソンは立ち上がり、壁の金庫から一通の古い手紙を取り出した。
「これは、あなたの祖父から私の祖父に宛てられた最後の書簡です。読んでみてください」
蒼一郎は震える手で手紙を受け取った。祖父の達筆な文字が、時を超えて語りかけてくる。
『親愛なるロバートへ。七つの契約の完成により、我々の理想は現実のものとなりつつある。しかし真の目的は、単なる商業的成功ではない。国境を越えた人と人との絆こそが、平和な世界への扉を開く鍵となるのだ』
続く文面を読み進めるうち、蒼一郎の胸に熱いものが込み上げてきた。祖父の真の理念が、ついに明らかになったのだ。
「第七の契約とは何なのでしょうか」
蒼一郎の問いに、ハドソンは微笑んだ。
「それは、世界平和基金の設立に関する契約です。七つの契約で得られる利益の一部を基金として積み立て、国際紛争の調停や貧困地域の支援に活用する。壮大な構想でした」
部屋に静寂が訪れた。祖父の理念の崇高さに、一同は言葉を失った。
「しかし、この契約には一つ条件があります」
ハドソンの表情が厳しくなった。
「他の六つの契約が、純粋に平和的な目的で運用されていることが前提なのです。もし軍事的な利用や政治的な思惑に使われた場合、第七の契約は無効となる」
蒼一郎の脳裏に、黒崎の影がよぎった。彼の野望が実現すれば、祖父の理念は完全に踏みにじられてしまう。
「現在の状況はいかがですか」
ハドソンの問いに、蒼一郎は正直に答えた。黒崎との対立、追跡を受けながらの契約締結、そして彼らの真の目的。
「なるほど。では、第七の契約の調印は、その黒崎という人物との決着がついてからということになりますね」
ハドソンは厳かに告げた。
「ただし、申し上げておきたいことがあります。この国には、黒崎のような野心家に対抗する力があります。自由と正義を重んじる人々が、必ずあなた方を支援するでしょう」
その時、部屋の扉が軽くノックされた。秘書が顔を出す。
「失礼いたします。緊急の電報が届いております」
差し出された電報を読んだハドソンの顔が青ざめた。
「これは……黒崎商会から我が社に対する買収提案です。相当な資金を背景にしているようですね」
蒼一郎の拳が強く握られた。黒崎の魔の手は、ここニューヨークにまで伸びていたのだ。
「しかし、ご安心を」
ハドソンは電報を破り捨てると、力強く宣言した。
「我が社は決して信念を曲げません。祖父から受け継いだ理念を、私も必ず次の世代に繋ぎます」
夕陽が窓から差し込む中、五人の男女は固い握手を交わした。新世界の扉が開かれた今、最後の戦いが始まろうとしていた。