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潮騒の商会と七つの海

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海の男の義理

潮見 航 | 2026-03-24

陽が高く昇った午後、海堂商会の玄関先に巨大な影が現れた。身の丈六尺を優に超える大男が、重い足音を響かせながら近づいてくる。日に焼けた顔には無数の傷跡があり、左の頬には三本の爪痕のような古い傷が刻まれていた。粗末な着物を着ているが、その立ち振る舞いには威厳がある。

「海堂の坊ちゃんはいるかい」

 番頭の佐々木が慌てて蒼一郎を呼びに走った。帳簿の整理をしていた蒼一郎は、その男の名を聞いて筆を止めた。

「鯨岡鉄蔵?」

 父からその名を何度か聞いたことがある。元は海賊稼業に手を染めていたが、今は真っ当な船乗りをしているという男だった。しかし、なぜ今頃になって商会を訪ねてきたのか。

 蒼一郎が応接間に通すと、鉄蔵は座布団の上にどっかりと胡坐をかいて座った。その豪快な様子に、蒼一郎は思わず身を固くする。

「久しぶりだな、坊ちゃん。いや、もう当主殿と呼ばなければならんか」

 鉄蔵の声は太く、部屋全体に響いた。蒼一郎は記憶を探った。確かに幼い頃、父と一緒にいるこの男を見たことがある。あの時も今と同じように圧倒的な存在感を放っていた。

「お久しぶりです、鯨岡さん。父がお世話になったと聞いております」

「世話になったのは俺の方さ」鉄蔵は豪快に笑った。「あんたの親父さんがいなければ、俺は今頃海の藻屑になっていただろうよ」

 蒼一郎は茶を出しながら、父から聞いた話を思い出していた。十年ほど前、鉄蔵は嵐に遭って船を失い、仲間と共に無人島に漂着した。たまたま航路を変更していた海堂商会の船が彼らを発見し、救助したのだという。

「親父さんは俺たちが海賊だと知っていたはずだ。それでも食べ物と水を分けてくれて、横浜まで送り届けてくれた。普通なら役人に突き出されても文句は言えんところをな」

 鉄蔵の目に懐かしさと感謝の色が浮かんだ。

「父は人を見る目があったのでしょう。鯨岡さんが悪い人ではないと分かっていたのです」

「そうかもしれんな。あの時、親父さんは俺に言ったんだ。『海は広い。君のような男が真っ当な道を歩めば、きっと多くの人の役に立てる』とな」

 鉄蔵は懐から古びた手紙を取り出した。

「これは親父さんからの最後の手紙だ。病気が重くなってからも、俺のことを気にかけてくれていた。そして最後にこう書いてある。『息子のことを頼む』とな」

 蒼一郎は手紙を受け取り、父の字を見つめた。確かに父の筆跡で、鉄蔵への感謝と蒼一郎への配慮が綴られている。文面からは父の人柄がにじみ出ていた。

「それで今日、お越しいただいたのですね」

「そういうことだ」鉄蔵は力強くうなずいた。「俺は親父さんに恩がある。その恩を息子のあんたに返したい。俺と俺の船を使ってくれ」

 蒼一郎は困惑した。確かに海堂商会は船を必要としていた。しかし、元海賊の男と組むことの危険性も理解している。世間の目もあるし、取引先からの信用を失う可能性もある。

「お気持ちは嬉しいのですが、鯨岡さん。私どもは堅実な商売を心がけておりまして…」

「堅実?」鉄蔵は眉をひそめた。「坊ちゃん、商売ってのはな、時には賭けに出なきゃならん時もあるんだ。親父さんはそれを知っていた。だからこそ海堂商会は大きくなったんじゃないのか」

 その時、明華が部屋に入ってきた。茶菓子を運んできた彼は、鉄蔵を見て目を丸くした。

「あ、船長さん」

「おお、昨日の坊やか」鉄蔵は明華に手を振った。「元気にしてるか」

 蒼一郎は二人を交互に見た。

「お知り合いですか?」

「港で会ったんだ」明華が説明した。「僕が荷物を運んでいる時、重い箱を持つのを手伝ってもらいました。とても優しい人です」

 鉄蔵は照れくさそうに頭を掻いた。

「なに、大したことじゃない。困った時はお互い様さ」

 蒼一郎は明華の表情を見て、何かを感じ取った。明華は人を見る目が鋭い。その明華が鉄蔵を信頼しているのなら、きっと彼は信頼に足る人物なのだろう。

「鯨岡さん、率直にお聞きします。なぜ今、私に協力したいと思われるのですか」

 鉄蔵は真剣な表情になった。

「坊ちゃん、いや、蒼一郎さん。俺は長い間海で生きてきた。その中で学んだことがある。海ってのは危険だが、同時に無限の可能性を秘めている。親父さんはそれを知っていた。だから俺たちのような荒くれ者でも救ってくれた」

 鉄蔵は立ち上がり、窓の外の港を見つめた。

「最近、港で変な噂を聞く。海堂商会を狙っている奴らがいるってな。親父さんの恩人の息子が困っているなら、俺は黙っていられない」

 蒼一郎の胸に熱いものがこみ上げてきた。父が生前に築いた人とのつながりが、今こうして自分を支えようとしている。

「ありがとうございます、鯨岡さん。しかし、私にはまだ分からないことがあります。父が本当に成し遂げたかったことが何だったのか」

「それは俺にも分からん」鉄蔵は振り返った。「だが、一つだけ確かなことがある。親父さんは人を信じることを恐れなかった。だからこそ多くの人に愛されたんだ」

 明華が口を開いた。

「蒼一郎さん、父は言っていました。『真の商人は利益だけでなく、人と人をつなぐ橋になる』と。鯨岡さんは、お父さんがかけた橋の向こう側にいる人なのかもしれません」

 蒼一郎は二人を見回した。明華の真摯な眼差しと、鉄蔵の力強い表情。父が信じた人とのつながりが、確実に自分の周りに形作られつつある。

「分かりました」蒼一郎は決意を込めて言った。「鯨岡さん、お力を貸してください。ただし、条件があります」

「何でも言ってくれ」

「私たちは正々堂々とした商売をします。法に触れることは一切しません。それでもよろしいですか」

 鉄蔵は大きく笑った。

「当たり前だ。俺はもう海賊じゃない。親父さんに教えてもらった通り、真っ当な道を歩いている」

 その時、外から慌ただしい足音が聞こえてきた。佐々木番頭が血相を変えて駆け込んでくる。

「蒼一郎さん、大変です!港の倉庫で火事です!海堂商会の荷物が積んである第三倉庫が燃えています!」

 三人は同時に立ち上がった。蒼一郎の脳裏に、明華が目撃した不審な男の姿がよぎる。これは偶然の火事ではない。

「急ぎましょう」蒼一郎が言うと、鉄蔵は既に外套を手に取っていた。

「任せろ、坊ちゃん。海の男の出番だ」

 四人は商会を飛び出し、港へと走った。空には黒い煙が上がり、横浜の街に不穏な影を落としている。蒼一郎は走りながら思った。父が築いた人脈が今、自分を支えてくれる。これからどんな困難が待ち受けていても、一人ではない。

 港に近づくにつれて、炎の勢いが激しさを増しているのが分かった。しかし、蒼一郎の心に恐れはなかった。信頼できる仲間たちが共にいる。父の意志を継ぐ戦いが、今始まろうとしていた。

第5話 海の男の義理 - 潮騒の商会と七つの海 | 福神漬出版