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薬草師と歪んだ鏡の迷宮

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薬草師の娘

霧島 彩乃 | 2026-03-20

朝霧が立ち込める江戸下町に、薬草を煎じる香りが静かに漂っていた。

 白川千鶴は土間に座り込み、すり鉢で丁寧に生薬を砕いている。十七歳の彼女の手つきは、年齢を超えた確かさを持っていた。父から受け継いだこの薬草問屋「白川堂」で、千鶴は今日も人々の病を癒そうと朝早くから仕込みに励んでいる。

「おや、千鶴ちゃん。今日も早いねえ」

 隣の茶屋から、女将のお花が顔を覗かせた。

「おはようございます、お花さん。今日は胃の薬を多めに作っておこうと思いまして」

 千鶴は微笑みながら手を止めた。彼女の笑顔には、父譲りの温かな慈愛が宿っている。亡くなった父・白川玄庵は、この界隈で「神様のような人」と慕われた薬草師だった。その血を引く千鶴もまた、人を救うことに心からの喜びを見出していた。

「感心だよ。あんたのお父さんも、きっと草葉の陰で喜んでいるさ」

 お花の言葉に、千鶴の胸が温かくなる。父が亡くなって三年。最初は不安で仕方なかったが、今では一人前の薬草師として認められるようになった。それも、父から教わった「人の心に寄り添う」という教えを大切にしてきたからだと、千鶴は信じていた。

 陽が高くなると、白川堂の暖簾をくぐる客足も増えてくる。いつものように、千鶴は一人一人の話に耳を傾け、症状に合わせた薬を調合していく。

「先生、いつもありがとうございます」

 腰痛で通う大工の親方が、薬包みを大事そうに懐にしまった。

「お大事になさってくださいね」

 千鶴は深く頭を下げる。「先生」と呼ばれることに、まだ照れくささを感じながらも、その責任の重さを噛み締めていた。

 昼下がり、いつもより静かになった店先で、千鶴は薬草の整理をしていた。秋の陽射しが店内を柔らかく照らし、乾燥した薬草の香りが心地よく鼻腔をくすぐる。

 そのとき、暖簾を分けて一人の女性が入ってきた。

 見覚えのある顔だった。確か、三丁目の茶屋「松葉」で働くお雪という娘だ。美しい顔立ちで評判の看板娘である。しかし今日のお雪は、どこか様子がおかしかった。

「あの、お雪さん?」

 千鶴が声をかけると、お雪はびくりと肩を震わせた。その瞳は虚ろで、まるで何かに怯えているようだった。

「先生…助けて…」

 か細い声で呟くお雪の顔は青白く、額には冷たい汗が浮んでいる。千鶴は慌てて彼女を奥の部屋に案内した。

「どうなさいました?どこか具合が悪いのですか?」

 座布団に座らせたお雪は、震える手で千鶴の袖を掴んだ。

「鏡が…鏡が私を見てるの…」

「鏡が?」

 千鶴は眉をひそめた。お雪の言葉が理解できない。

「どこを見ても…鏡、鏡、鏡…私がいっぱい映って…でも、それは私じゃない…違う顔してる…笑ってる…」

 お雪の声は次第に震え声になっていく。千鶴は彼女の脈を取った。脈は異様に速く、瞳孔も開いている。しかし、これまで千鶴が見てきたどの症状とも違っていた。

「お雪さん、何か変わったものを口にしませんでしたか?薬や、見慣れない食べ物など…」

「薬…そう、薬をもらったの…綺麗になれるって…」

 お雪は虚空を見つめながら答えた。

「誰からですか?どんな薬でしたか?」

「お医者様…優しいお医者様が…鏡月斎様が…」

 鏡月斎。千鶴は聞き慣れない名前だった。この界隈の医師は大抵知っているが、その名前は初耳だ。

「その薬は、どのようなものでしたか?」

「綺麗な紫色で…甘い香りがして…飲むと夢を見るって…でも、でも…」

 突然、お雪が千鶴の手を強く握り締めた。

「夢から出られない!鏡の中に閉じ込められて!助けて、先生…私、私が分からなくなる…」

 お雪の瞳に、深い恐怖が宿っていた。千鶴は背筋に冷たいものが走るのを感じた。これは単なる病気ではない。何か得体の知れない、恐ろしいものの気配を感じ取った。

 千鶴は取り急ぎ、気持ちを落ち着かせる薬を煎じて飲ませた。しばらくすると、お雪の震えは多少和らいだが、それでも時折、何かに怯えるように辺りを見回している。

「今日は私の家で休んでいってください。明日、詳しくお話を聞かせてもらえますか?」

 お雪は小さく頷いた。千鶴は彼女を自分の住まいに案内しながら、胸の奥に湧き上がる不安を抑えきれずにいた。

 夜が更けても、千鶴は眠れずにいた。隣の部屋で休むお雪の寝息を聞きながら、彼女の言葉を反芻している。鏡月斎という医師、紫色の薬、そして鏡の幻覚。父から受け継いだ知識を総動員しても、これほど奇怪な症状は思い当たらない。

 窓の外では、秋風が木々を揺らしている。その音がまるで、何かの警告のように千鶴の耳に響いていた。

 翌朝、目を覚ますと、お雪の姿はなかった。布団は綺麗に畳まれており、枕元には小さな紙片が残されていた。

『ありがとうございました。でも、もう遅いのです。鏡の向こうに行かなければ…』

 千鶴は血の気が引くのを感じた。急いで外に出ると、近所の人々が騒いでいる。

「お雪ちゃんが川で見つかったって!」

「生きてるけど、ぼんやりしちゃって…」

 千鶴は慌てて現場に向かった。お雪は川辺に立ち尽くし、水面をじっと見つめていた。まるで、そこに何かが映っているかのように。

「お雪さん!」

 千鶴が声をかけると、お雪はゆっくりと振り返った。しかし、その顔には昨日の怯えは消えており、代わりに不気味なほど穏やかな笑みが浮かんでいた。

「先生…鏡の国は美しかった…でも、帰り道が分からないの…」

 その瞬間、千鶴は確信した。これは自然な病ではない。何者かが、何かの目的でお雪に薬を与えたのだ。そして、その影響で彼女の心は深い迷宮に迷い込んでしまった。

 鏡月斎。その名前が千鶴の脳裏に焼き付いていた。

第1話 薬草師の娘 - 薬草師と歪んだ鏡の迷宮 | 福神漬出版