川辺で発見されたお雪は、まるで人形のように表情を失っていた。千鶴が駆けつけた時、少女は濁った瞳で虚空を見つめ、時折ぞっとするような笑みを浮かべては、誰もいない空間に向かって話しかけていた。
「お雪さん、私です。千鶴です」
千鶴の呼びかけにも、お雪は反応を示さない。ただ、唇だけが小さく動いて、聞き取れないほど小さな声で何かを呟いている。耳を近づけると、寒気が背筋を駆け上がった。
「鏡の向こうに…母様がいる。でも、母様は三年前に死んだはず…」
お雪の母親は確かに病で亡くなっていた。千鶴も最期を看取った一人だった。それなのに、お雪は存在しないはずの記憶を語り続ける。
「昨日、母様と一緒に吉原を歩いたの。でも変なの、母様の顔が鏡みたいにぐにゃぐにゃして…」
千鶴は震える手でお雪の脈を取った。脈拍は異常に速く、瞳孔も開いている。明らかに薬物による症状だったが、これほど深刻な幻覚症状は見たことがない。
その後の三日間で、白川堂を訪れる患者たちの症状に、千鶴は奇妙な共通点を見つけた。
「先生、昨夜また夢を見ました」
商家の若旦那、伊之助が青ざめた顔で診察台に座っていた。
「どのような夢でしたか」
「亡くなった弟と祭りに行く夢です。でも弟は生まれてすぐに死んだはずなのに、夢の中では私より背が高くて…そして鏡を見ると、自分の顔が溶けているんです」
千鶴の手が止まった。昨日診た呉服屋の女将も同じようなことを言っていた。存在しないはずの記憶、そして鏡に映る異形の自分。
「伊之助さん、最近何か変わった薬を服用されましたか?紫色の…」
「ああ、そういえば」伊之助は思い出すように額に手を当てた。「鏡月斎という医師から頂いた薬がありました。胃の調子が悪いと相談したら、とてもよく効く薬だと」
鏡月斎。またその名前だった。
千鶴は診察を終えると、薬草の調合室に籠もった。父から受け継いだ古い医学書を紐解きながら、症状の原因を探る。幻覚、記憶の混乱、鏡への異常な反応。これらの症状を引き起こす薬草は限られている。
「心魂草…」
千鶴は震える指で古い文字を辿った。心魂草は人の精神に作用する危険な薬草で、使い方を誤ると現実と幻想の境界を曖昧にしてしまう。しかし、この薬草は幕府によって使用が禁じられており、一般には出回らないはずだった。
夕闇が迫る頃、千鶴は決意を固めた。一人では解決できない。信頼できる人物の力が必要だった。
奉行所への道すがら、千鶴は幼い頃の記憶を辿っていた。慎之助とは近所の子供として一緒に育った。彼が同心になってからは会う機会も減ったが、正義感の強さは昔から変わらないはずだった。
「千鶴?」
奉行所の門前で呼び止められて振り返ると、見覚えのある男性が立っていた。慎之助だった。二十五歳になった彼は、少年時代の面影を残しながらも、凛とした大人の男性に成長していた。
「慎之助さん」
「どうしてこんなところに?まさか何か事件に…」
慎之助の表情が心配そうに曇る。千鶴は安堵の息を漏らした。
「実は、相談したいことがあるんです」
近くの茶屋で向かい合って座ると、千鶴は一連の出来事を説明した。お雪の症状、他の患者たちの共通点、そして鏡月斎という謎の医師について。慎之助は真剣な表情で聞いていたが、話が進むにつれて眉間の皺が深くなった。
「心魂草か…」慎之助は湯呑みを置いて腕組みをした。「確かにそれは禁制の薬草だ。しかし、鏡月斎という医師については聞いたことがない」
「でも実際に患者たちは彼から薬をもらっています」
「それが問題なんだ」慎之助は声を低めた。「江戸で医師として活動するには奉行所への届け出が必要だが、その名前は記録にない。つまり…」
「違法に医療行為を行っている」
千鶴の推測に、慎之助は重々しく頷いた。
「しかも禁制の薬草を使っているとなれば、これは重大な犯罪だ。千鶴、君は危険な事件に巻き込まれているかもしれない」
慎之助の言葉に、千鶴の胸に冷たいものが走った。しかし同時に、長年の疑問が晴れていく気がした。
「慎之助さん、一緒に調べていただけませんか?このまま放っておけば、もっと多くの人が被害に遭うかもしれません」
慎之助は千鶴の真剣な眼差しを見つめていたが、やがて決意を込めて答えた。
「もちろんだ。だが、君も十分に気をつけてくれ。相手がどんな人物かわからない以上、何が起こるかわからない」
その時、茶屋の奥から女将が慌てて現れた。
「お客様、大変なことです!川向こうの骨董屋で変な騒ぎが…鏡を見ていた主人が突然叫び出して、誰もいないのに誰かと口論を始めたって」
千鶴と慎之助は顔を見合わせた。
「行きましょう」
二人は茶屋を飛び出し、夜の街を駆けた。千鶴の心臓は激しく鼓動を打っていたが、それは恐怖だけではなかった。ようやく事件の全容が見え始めた気がしていた。
骨董屋に着くと、店主は古い銅鏡の前で膝をついて震えていた。鏡面には千鶴たちの姿が映っているが、店主だけは鏡の中で全く違う表情をしていた。まるで鏡の中に別の人格が存在するかのように。
「あれを見て」慎之助が千鶴の袖を引いた。
鏡の縁に、小さく刻まれた文字があった。月明かりに照らされたその文字を読んだ瞬間、千鶴の血が凍りついた。
そこには「鏡月斎」という名前が彫られていたのだった。