崩れた天井から射し込む朝の光が、千鶴の頬を優しく撫でていく。意識を取り戻した彼女の瞳に映ったのは、心配そうに見つめる慎之助の顔だった。
「千鶴、気がついたか」
慎之助の声には安堵と疲労が滲んでいる。昨夜の戦いで負った毒針の傷は、お雪が応急処置を施してくれたおかげで悪化は免れていたが、青白い顔色は隠しようがなかった。
「慎之助さん、お怪我は……」
「俺のことより、お前の方こそ大丈夫なのか。昨夜はずっと魘されていた」
千鶴は身を起こし、あたりを見回した。彼らは組織の隠れ屋敷から少し離れた廃寺に身を寄せていた。お雪が焚き火の番をしながら、時折不安そうな表情を見せている。
「お雪さん」
千鶴が声をかけると、少女は振り返った。組織から解放されてなお、その瞳には現実と幻覚の境界が曖昧な様子が窺えた。
「千鶴さん……私、まだ時々わからなくなるの。ここが本当なのか、また夢の中なのか」
その言葉に、千鶴の胸は締め付けられた。お雪だけではない。組織の実験によって心を蝕まれた人々が、この街のどこかで今もなお苦しんでいるのだ。
千鶴は懐から、父の霊が示してくれた秘伝書を取り出した。古い和紙に記された文字は、朝の光に照らされて神秘的な輝きを放っている。
「心魂草の真の力……」
頁を繰りながら、千鶴は父・道玄の教えを思い返していた。薬草は人を傷つけるためではなく、癒すために存在する。心魂草もまた、本来は人の心の傷を癒し、魂を浄化する神聖な植物だったのだ。
鏡月斎たちは、その力を悪用し、人の心を操る道具として使っていた。しかし、正しい方法で用いれば、傷ついた心を本当の意味で救うことができる。
「千鶴さん、その本に何が書かれているの?」
お雪が興味深そうに尋ねる。千鶴は微笑みを浮かべた。
「お雪さんや、同じように苦しんでいる人たちを救う方法です」
秘伝書には、心魂草を用いた浄化の儀式について詳細に記されていた。ただし、その代償について警告する一文も目に留まる。
『心魂草の真の力を解放する者は、自らの生命力を分け与えることになる。多くの魂を救おうとすればするほど、術者の命は削られていく』
千鶴の手が一瞬震えた。しかし、すぐに決意を固める。お雪の苦しみ、そして街のどこかで今もなお現実と幻覚の境界で彷徨っている人々のことを思えば、自分の命など惜しくはなかった。
「千鶴、何を考えている」
慎之助が心配そうに声をかける。千鶴の表情に、何か重大な決意が宿っていることを察したのだ。
「慎之助さん、私はこの力を使います。お雪さんたちを救うために」
「待て、それは危険すぎる。鏡月斎の実験で、心魂草がどれほど恐ろしいものか、お前も見たではないか」
「でも、正しく使えば人を救えるんです。父がそう教えてくれました」
千鶴は秘伝書の内容を二人に説明した。お雪は希望に満ちた表情を見せたが、慎之助の顔には困惑と心配が浮かんでいる。
「代償があるのか」
「……はい」
千鶴は正直に答えた。慎之助の表情が厳しくなる。
「ならば駄目だ。お前を失うくらいなら——」
「でも、このままでは多くの人が苦しみ続けるんです!」
千鶴の声に、強い意志が込められていた。薬草師の娘として、また一人の人間として、自分にできることがあるのに見過ごすわけにはいかない。
お雪が静かに口を開いた。
「千鶴さん、私のために危険を冒してもらうわけにはいきません」
「お雪さん……でも、私は薬草師なんです。人を救うのが使命なんです」
廃寺の静寂の中で、三人の想いが交錯する。やがて慎之助がため息をついた。
「……わかった。ただし、俺も一緒に力を貸す。お前一人に背負わせはしない」
「慎之助さん」
「薬草の知識はないが、お前を支えることはできる。それに、街の人々を救うのは同心の務めでもある」
千鶴の瞳に涙が浮かんだ。慎之助の優しさと強さに、改めて心を打たれる。
「ありがとうございます」
千鶴は秘伝書に従い、儀式の準備を始めた。心魂草の乾燥させた葉を特別な方法で煎じ、香として焚く。立ち上る煙は紫がかった色合いを帯び、神秘的な香りを放った。
「お雪さん、この煙を吸いながら、私の声に集中してください」
お雪が頷く。千鶴は深く息を吸い、心魂草の力を自分の内に取り込んだ。瞬間、世界の見え方が変わる。お雪の周りに、暗い影のような何かが纏わりついているのが見えた。組織の実験によって植え付けられた、恐怖と混乱の残滓だった。
千鶴は手を伸ばし、その影に触れた。途端に、激しい痛みが全身を駆け抜ける。お雪が受けた苦痛や恐怖が、千鶴の心に流れ込んでくるのだ。
「うっ……」
千鶴の顔が苦悶に歪む。慎之助が支えようとしたが、千鶴は首を振った。
「大丈夫です……続けます」
千鶴は必死に耐えながら、お雪の心に巣食う闇を浄化していく。自分の生命力を分け与えながら、少しずつ少しずつ、少女の魂を光で満たしていく。
やがてお雪の表情が穏やかになった。長い間彼女を苛んでいた現実と幻覚の境界が、ついに明確になったのだ。
「千鶴さん……ありがとう。やっと、やっと現実がはっきり見えます」
お雪の瞳に、久しぶりに純粋な喜びが宿った。しかし千鶴は、膝をつきそうになるほど消耗していた。顔は青白く、額には冷たい汗が浮かんでいる。
「千鶴!」
慎之助が慌てて支える。千鶴の体温が著しく下がっているのがわかった。
「一人救うだけで、これほど消耗するのか……」
「でも……成功しました。お雪さんを救えました」
千鶴の声は弱々しかったが、その表情には達成感が浮かんでいた。しかし同時に、新たな決意も宿している。
「街には、まだたくさんの被害者がいるはずです。私は、全員を救いたい」
慎之助は千鶴の手を握りしめた。その手が、心配になるほど冷たくなっていることに気づく。
「千鶴、無理をするな。お前の体が持たない」
「でも……」
「段階的に救えばいい。お前が倒れてしまったら、結局誰も救えなくなる」
千鶴は慎之助の言葉に頷いたが、その瞳には強い意志の光が宿り続けていた。多くの人を救うためなら、自分の命を賭けることも厭わない。そんな覚悟が、静かに彼女の心に根を下ろしていた。