夕暮れの薄茜色が空を染める頃、千鶴は白川家の薬草問屋へと足を向けていた。先刻まで慎之助とお雪と共に治療に当たっていた患者の容態は安定し、心魂草による治療が順調に進んでいることを確認できた安堵感が胸にあった。しかし、それと同時に湧き上がってくるのは、ずっと心の奥底に押し込めていた想いだった。

 叔父のことだった。

 表通りから一本奥に入った薬草問屋の暖簾をくぐると、番頭の新助が慌てたように迎えた。

「千鶴様、お帰りなさいませ。あの、実は……」

「叔父様がいらしているのでしょう?」

 千鶴の問いに、新助は驚いたように目を丸くした。

「はい。奥の座敷でお待ちでございます。少々、お疲れのご様子で」

 千鶴は静かに頷き、足音を立てないよう奥へと向かった。襖の向こうから微かに聞こえてくる、懐かしい咳払いの音。幼い頃に聞き慣れた、あの人の癖だった。

 襖を開けると、薄暗い座敷の中央に叔父の白川玄斎が座していた。以前よりも頬がこけ、髪に白いものが目立つようになっていたが、その鋭い眼光は変わらない。千鶴を見つめるその瞳には、複雑な感情が宿っていた。

「千鶴」

 低く落ち着いた声で叔父が名を呼んだ。千鶴は静かに座敷に上がり、叔父の前に正座した。

「叔父様。お久しぶりでございます」

 二人の間に重い沈黙が流れた。夕闇が徐々に深くなり、座敷の隅に置かれた行灯の炎が微かに揺れている。その光と影が、二人の表情を交互に照らし出した。

「すまなかった」

 突然発せられた叔父の言葉に、千鶴は息を詰めた。

「お前に、つらい想いをさせた。あの時、もっと違う道があったかもしれないのに……私は愚かだった」

 玄斎の声には、深い後悔の色が滲んでいた。千鶴は胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じた。

「叔父様」

「鏡月斎の組織に加わったのは、最初は純粋な学問への探究心からだった。薬草の新たな可能性を追求し、より多くの人を救いたいと思っていた。だが、いつの間にか道を踏み外していた」

 玄斎の手が、膝の上でかすかに震えている。千鶴はその手を見つめながら、父から聞いた話を思い出していた。叔父もまた、薬草師として人を救いたいという純粋な気持ちを持った人だったのだ。

「組織の中で、私は多くの非道を目にした。そして、それを止められなかった。いや、止めようとしなかった」

「叔父様……」

「お前が組織と対峙していると聞いた時、私は恐ろしくてたまらなかった。お前まで、この汚れた世界に引きずり込んでしまうのではないかと」

 千鶴は静かに立ち上がると、叔父の側に寄り添うように座り直した。

「叔父様、過ちを犯したのは事実かもしれません。でも、叔父様は最後には組織を離れ、私たちに情報を与えてくださった。それがなければ、もっと多くの人が犠牲になっていたでしょう」

「千鶴……」

「父がよく申しておりました。薬草師にとって大切なのは、過ちを恐れることではなく、過ちから学び、正しい道に戻ろうとする心だと」

 玄斎の目に、涙が滲んだ。

「兄は、最後まで立派な薬草師だった。そして、その娘も」

 二人は静かに微笑み合った。長い間隔てていた心の壁が、音もなく崩れ落ちていくのを千鶴は感じていた。

「叔父様、これからのことをお話ししたいことがございます」

 千鶴は、心魂草による治療のこと、お雪の回復のこと、そして今後の活動計画について詳しく話した。玄斎は時折質問を挟みながら、真剣に耳を傾けていた。

「素晴らしい」

 話を聞き終えた玄斎が、感嘆の声を上げた。

「兄の研究を正しい形で継承し、さらに発展させている。私が組織で得た知識も、こうして使えば人を救うことができるのだな」

「叔父様のお力をお借りできれば、きっともっと多くの方を助けることができます」

「ああ、喜んで協力させてもらおう。これまでの罪滅ぼしとして、残りの人生を人助けに捧げたい」

 玄斎の表情に、久しぶりに穏やかな笑みが浮かんだ。千鶴も安堵の息を漏らした。

「ところで」と玄斎が思い出したように口を開いた。「組織の残党についてだが、完全に根絶されたわけではない。鏡月斎の思想に共鳴していた者たちが、各地に散らばっている可能性がある」

 千鶴の表情が引き締まった。

「やはり、そうでしたか」

「特に気をつけなければならないのは、夢見草の精製技術を持つ者たちだ。彼らが新たな組織を作る可能性は十分にある」

「慎之助も同じような懸念を抱いておりました」

「あの若い同心か。良い男だな。お前を支えてくれる頼もしい相棒を得たものだ」

 千鶴の頬がほんのりと赤らんだ。

「叔父様、からかわないでください」

「からかってなどいない。大切な人を得ることも、薬草師として成長することの一つだ」

 二人の会話は、夜が更けるまで続いた。薬草の新しい調合法について、今後の治療方針について、そして家族としての絆について。失われていた時間を取り戻すかのように、言葉を交わし合った。

 翌朝、千鶴は叔父と共に治療所を訪れた。お雪が薬草の調合を手伝っている姿を見て、玄斎は目を細めた。

「この娘が、お雪さんか」

「はい。もうすっかり回復されて、薬草師を目指して勉強中なのです」

 お雪は丁寧に玄斎に挨拶し、自分の体験と今の想いを語った。玄斎はその話を聞きながら、深く頷いていた。

「素晴らしい回復ぶりだ。千鶴の治療技術も、兄を超えているかもしれない」

 そこへ慎之助がやってきた。叔父の存在を知ると、最初は警戒したような表情を見せたが、千鶴の説明を聞いて安堵の表情を浮かべた。

「白川玄斎様ですね。千鶴からお話は伺っております」

「桐生同心、お世話になっている。これからもよろしく頼む」

 四人は今後の計画について話し合った。玄斎の知識と経験、慎之助の捜査力、お雪の回復体験、そして千鶴の治療技術。それらを組み合わせることで、より効果的な救済活動ができるはずだった。

「まずは、組織の残党の動向を探ることから始めよう」と慎之助が提案した。

「私の古い人脈を使って、情報収集に協力しよう」と玄斎が応えた。

「私も、同じような被害を受けた方々との繋がりを大切にしたいと思います」とお雪が付け加えた。

 千鶴は三人を見回しながら、胸の奥で温かいものが広がるのを感じていた。一人では到底成し遂げられなかったことも、こうして力を合わせることで可能になる。父から受け継いだ薬草師としての道を、もうひとりで歩く必要はないのだ。

 しかし、その時、治療所の扉が勢いよく開かれた。息を切らした町人が駆け込んできた。

「先生!大変です!橋向こうの長屋で、また変な病気が流行り始めて……今度は子供たちばかりが……」

 四人は顔を見合わせた。まだ戦いは終わっていない。いや、本当の戦いは今から始まるのかもしれなかった。

 千鶴は立ち上がり、薬草の入った籠に手を伸ばした。叔父も、慎之助も、お雪も、同じように立ち上がった。

 新たな挑戦が、彼らを待っていた。

薬草師と歪んだ鏡の迷宮

48

叔父との和解

霧島 彩乃

2026-05-07

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第48話 叔父との和解 - 薬草師と歪んだ鏡の迷宮 | 福神漬出版