夜明けの光が薄青く空を染める頃、千鶴は父の遺した薬草店の奥座敷で、最後の歪んだ鏡と向き合っていた。手のひらほどの大きさの青銅鏡は、長い間この家に置かれていたもので、表面には細かな傷が無数に刻まれている。
鏡に映る自分の顔は、やはりどこか歪んで見えた。頬が痩けて見えたり、目が大きく見えたり、まるで自分ではない誰かのようだった。
「もう、あなたの力は借りません」
千鶴は静かに呟くと、鏡を厚い布で包んだ。慎之助が昨夜運んでくれた木箱には、既に屋敷中から集めた歪んだ鏡が収められている。大小様々な鏡たちは、どれもが現実を歪めて映し出す魔性の道具だった。
「千鶴、準備はできたか」
慎之助の声が表から聞こえてくる。千鶴は最後の鏡を木箱に収めると、重い蓋を閉めた。
「はい。これで全部です」
玄斎叔父様とお雪も既に表で待っていた。四人は無言のまま木箱を担ぎ、町外れの川辺へ向かった。朝靄が立ち込める中、彼らの足音だけが静寂を破っている。
川辺に着くと、慎之助が事前に用意しておいた薪に火を点けた。炎が勢いよく燃え上がる中、千鶴は一つずつ鏡を取り出していく。
「この鏡たちは、確かに真実を映していたのかもしれません」玄斎が静かに語りかけた。「けれど、その真実は人を惑わせ、苦しめるものでした」
「ええ」千鶴は頷いた。「本当の真実は、もっと単純で、もっと暖かいものなのでしょう」
最初の鏡を炎に投げ込むと、青銅は熱で赤く光り、やがて溶けて形を失った。続いてお雪が二つ目を、慎之助が三つ目を投げ込む。鏡が燃える度に、まるで何かの呪縛が解けていくような気がした。
「お嬢様」お雪が振り返った。「私、もう自分が本当は誰なのか、分からなくなることはありません。この鏡たちがなくても、きっと大丈夫です」
千鶴は微笑んだ。お雪の瞳には、もう幻覚に惑わされていた頃の混乱はなく、澄んだ光が宿っている。
最後の鏡を手に取った時、千鶴は一瞬躊躇した。これらの鏡は、確かに自分たちに多くのことを教えてくれた。現実の裏に潜む真実を、人の心の奥底に隠された想いを、そして世界の複雑さを。
「でも、もう必要ありませんね」
千鶴は最後の鏡を炎に投げ込んだ。
* * *
それから一月が過ぎた。薬草店には再び多くの患者が訪れるようになり、千鶴は父から受け継いだ知識を活かして人々を治療していた。玄斎も正式に店を手伝うようになり、二人の知識を合わせることで、より多くの病に対処できるようになった。
「千鶴、例の子供たちの様子はどうだ」慎之助が店の奥から声をかけてきた。
「とても良くなっています」千鶴は薬草を調合しながら答えた。「あの奇病は、やはり鏡月斎の組織が撒いた毒が原因でした。解毒剤が効いて、もう心配ありません」
店の片隅では、お雪が薬草の整理を手伝っている。彼女も千鶴の弟子として、薬草の知識を学び始めていた。記憶に混乱はあるものの、新しいことを覚える能力に問題はなく、持ち前の器用さで薬草の調合も上達していた。
「お雪、その朝顔の種はもう少し細かく砕いて」
「はい、お嬢様」
二人のやり取りを聞きながら、玄斎が満足そうに頷いた。
「千鶴、お前は本当に立派な薬草師になったな。父上もきっと喜んでおられるだろう」
「叔父様のおかげです」千鶴は振り返って微笑んだ。「一人では、ここまでできませんでした」
夕暮れ時、四人は店の縁側で茶を飲みながらくつろいでいた。歪んだ鏡を処分してから、千鶴の家は不思議なほど平穏で暖かい空間になった。窓から差し込む夕日は真っ直ぐに畳を照らし、そこには何の幻影も映っていない。
「そういえば」慎之助が思い出したように言った。「鏡月斎の組織の残党が、まだ数人捕まっていない。奉行所では引き続き捜索を続けているが」
「彼らも、いつかは自分たちの過ちに気づく日が来るでしょう」千鶴は湯呑みを両手で包みながら答えた。「人の心を操ろうとする薬草の研究なんて、結局は自分自身を苦しめるだけですから」
「千鶴の言う通りだ」玄斎が深く頷いた。「私もそうだった。真実を追い求めるあまり、本当に大切なものを見失ってしまった」
お雪が静かに口を開いた。
「でも、私たちは今、本当のものを見ることができています。鏡がなくても、いえ、鏡がないからこそ」
四人は無言で夕焼け空を見上げた。雲一つない空に、最初の星がきらりと光っている。
* * *
その夜、千鶴は一人で父の位牌の前に座っていた。薄暗い仏間で、蝋燭の光が静かに揺れている。
「お父様、やっと分かりました」千鶴は小さな声で語りかけた。「本当の薬草師とは、人の心に寄り添い、ただ純粋に治癒を願う人なのですね」
位牌は何も答えなかったが、千鶴には父の声が聞こえるような気がした。優しく、暖かい声が。
翌朝、千鶴が店の戸を開けると、既に何人かの患者が待っていた。子供を抱いた母親、腰の痛みに苦しむ老人、咳の止まらない商人。それぞれが千鶴に治療を求めて来ている。
「おはようございます。どうなさいましたか」
千鶴は一人ひとりの症状を丁寧に聞き、適切な薬草を調合していった。鏡はもうどこにもない。あるのは患者の苦しみに共感する心と、それを癒やそうとする意志だけだった。
昼過ぎ、慎之助が顔を覗かせた。
「千鶴、少し話がある」
二人は店の裏手に回った。そこは小さな薬草園になっていて、千鶴が育てている薬草が青々と茂っている。
「実は、奉行所から新しい任務を言い渡された」慎之助の表情が少し曇った。「隣の藩で奇怪な事件が起きているらしい。調査に向かうことになった」
「そうですか」千鶴は予想していたという顔で頷いた。「いつ出発ですか」
「明日の朝だ」慎之助は千鶴の手を取った。「千鶴、君に頼みがある」
「何でしょう」
「もし、また君の助けが必要になったら、一緒に来てもらえるだろうか。君の知識と、君の真っ直ぐな心が、きっと多くの人を救うことになる」
千鶴は微笑んだ。
「もちろんです。でも今度は、歪んだ鏡は持参しませんよ」
「それがいい」慎之助も笑った。「君自身の目で見て、君自身の心で感じたことだけを信じればいい」
夕暮れが近づく頃、千鶴は薬草園で一人、薬草の手入れをしていた。土に手を触れ、葉の色を確かめ、香りを嗅ぐ。どれも真実の感覚だった。
ふと、薬草の間に小さな光る物を見つけた。近づいてよく見ると、それは水溜りに映った夕日だった。自然の鏡に映る千鶴の顔は、歪むことなくありのままの姿を示している。
「これからは、こんな鏡だけで充分ですね」
千鶴は水面に向かって微笑みかけた。すると、水面の中の千鶴も同じように微笑み返した。