朝霧が薄く立ち込める頃、千鶴は茶屋「春風」へと足を向けた。お雪の様子を見舞うという名目だったが、心の奥では心魂草の影響をより詳しく観察したいという思いが渦巻いていた。父から受け継いだ薬草の知識では、この禁断の草の真の恐ろしさを理解しきれずにいた。
茶屋の奥座敷に案内されると、お雪は薄い布団にくるまったまま、虚ろな瞳で天井を見つめていた。その横顔は以前の愛らしさを残しているものの、どこか人形のような無機質さを帯びていた。
「お雪さん、私です。白川千鶴です」
声をかけても、お雪の視線は動かない。ただ、唇がかすかに震えているのが見えた。
「あの方が…またいらっしゃる」お雪の声は掠れていた。「白い着物の女の人が、私の名前を呼ぶのです。でも、その顔は鏡のように歪んで見えるの」
千鶴は胸の奥に冷たいものが走るのを感じた。心魂草の影響で現実と幻覚の境界が曖昧になっているのは明らかだった。しかし、お雪の言葉には妙にリアリティがあり、単なる幻覚とは思えない何かがあった。
「その女の人は、何と言っているのですか?」
「『真実を見つけなさい』と…。でも、何の真実なのか分からないの。私の記憶が、まるで霧の中に溶けてしまったみたい」
お雪の言葉を聞きながら、千鶴は自分の胸に手を当てた。実は昨夜から、自分自身にも奇妙な症状が現れ始めていた。子供の頃の記憶の一部が、まるで水に濡れた墨で書いた文字のように滲んで曖昧になっているのだ。
茶屋を後にした千鶴は、慎之助との待ち合わせ場所である薬草問屋街へ向かった。いつもなら馴染みの店主たちと挨拶を交わすのだが、今日はなぜか足早に通り過ぎてしまう。頭の片隅で、誰かに見られているような感覚が拭えずにいた。
「千鶴、顔色が優れないな」
慎之助の声に我に返ると、彼が心配そうな表情で自分を見つめていた。
「お雪さんの症状が悪化しています。それに…」千鶴は言いかけて口を閉じた。自分の記憶に異常があることを、まだ慎之助には打ち明けられずにいた。
「それに?」
「いえ、何でもありません。それより、新たな手がかりは見つかりましたか?」
慎之助は微かに眉をひそめたが、話を続けた。
「鏡月斎の足取りを追っているのだが、まるで煙のように掴めない。ただ、興味深いことが一つある。ここ数日、街の薬種問屋で心魂草に似た効能を持つ薬草の買い占めが起きているらしい」
その言葉に、千鶴の背筋に寒気が走った。心魂草だけでなく、類似の薬草まで集められているとすれば、実験の規模は想像以上に大きいかもしれない。
「どのような薬草ですか?」
「忘憂草、迷夢花、それに…確か魂縛の根とかいう名前だった」
千鶴は息を呑んだ。それらはすべて、父の古書で読んだ記憶がある。どれも精神に作用する危険な薬草で、組み合わせによっては記憶を操作することも可能だと記されていた。
「慎之助さん、私たちは大変な相手と対峙しているのかもしれません」
二人が話し込んでいると、突然千鶴の視界がぼやけた。一瞬、慎之助の顔が父の顔に見え、そして見知らぬ男性の顔に変わった。頭の中に甘い香りが漂い、現実感が薄れていく。
「千鶴! 大丈夫か?」
慎之助の声で意識を取り戻すと、自分が彼の腕に支えられていることに気づいた。額に冷たい汗が浮かんでいる。
「すみません、少し眩暈が…」
「無理をしすぎているのではないか。一度、家で休んだ方がいい」
千鶴は首を振った。今休むわけにはいかない。しかし、自分の身に起きている異変が、単なる疲労ではないことは薄々感じていた。心魂草の影響が、自分にも及び始めているのではないか。
家に戻る道すがら、千鶴は子供の頃の記憶を辿ろうとした。しかし、父と過ごした日々の中に、まるで虫食いのように欠落した部分があることに気づく。特に、七歳頃の記憶が曖昧だった。確か、その頃に母を亡くしたはずなのに、母の最期の様子がどうしても思い出せない。
家に着いても、いつもなら安らぎを感じる薬草の香りが、今日は妙に甘く感じられた。まるで心魂草の香りに似ているような…。
その夜、千鶴は父の書斎で古書を読み返していた。心魂草の記述を再度確認していると、ある一文に目が留まった。
「心魂草の影響を受けた者は、やがて記憶の混濁を起こし、現実と虚構の区別がつかなくなる。この症状は、草を直接摂取しなくても、長期間その香りを嗅いでいるだけでも現れることがある」
千鶴の手が震えた。もしかすると、自分も既に心魂草の影響下にあるのかもしれない。いや、それ以前に—。
ふと、書斎の隅に置かれた小さな香炉に目が向いた。普段は気にも留めていなかったが、そこから立ち上る煙が妙に甘い香りを放っている。恐る恐る近づいて中を覗くと、見慣れない紫色の粉末が燻っていた。
これは一体、いつから? 父が用意したものなのか、それとも—。
その時、玄関の戸が静かに開く音がした。しかし、足音は聞こえない。千鶴は身を硬くして耳を澄ませた。
「千鶴様」
聞き覚えのない女性の声が廊下から響いてきた。お雪が言っていた白い着物の女のことが頭をよぎる。
「お父様がお呼びです」
千鶴の血が凍った。父はもう、この世にいない。では、この声の主は一体何者なのか。そして、なぜ自分は立ち上がって声のする方へ向かおうとしているのか。
足が勝手に動き出す中で、千鶴は最後の理性を振り絞って思った。自分の記憶から失われた七歳の頃の出来事と、今起きていることには、きっと深い関係があるに違いない。そして、それこそが鏡月斎の狙いなのかもしれない。
廊下の向こうで、白い影がゆらゆらと揺れていた。