朝霧が立ち込める下町を、千鶴は足早に歩いていた。昨夜の鶴屋での出来事が頭から離れない。古い鏡に映った不可思議な影、そしてお雪の虚ろな瞳。あの症状は、間違いなく何らかの薬草による中毒に違いなかった。
「心魂草……」
千鶴は小さく呟いた。父の蔵書の中で、何度か目にした名前だった。しかし、父はその薬草について語ることを頑なに拒んでいた。今となっては、その理由を直接聞くことはできない。
薬草問屋の白川屋に戻ると、千鶴は迷わず奥の蔵へ向かった。そこには父が生前大切にしていた古書の数々が、桐の箱に収められて眠っている。普段は手を触れることを躊躇っていた禁書の類も、今は背に腹は代えられない。
埃を払いながら古書を取り出していくと、一冊の薄い冊子が目に留まった。表紙には「心魂草考」と達筆な文字で書かれている。千鶴の胸が高鳴った。
頁を開くと、父の几帳面な文字で記された文章が現れた。
『心魂草は古来より"人の心を映す鏡"と呼ばれてきた。適切に調合すれば、心の病を癒やす妙薬となるが、誤った使い方をすれば人の精神を破綻させる恐ろしい毒草と化す。この草の栽培と調合には、薬草師として長年の修練を積んだ者でも細心の注意を要する。決して素人が手を出してはならぬ』
千鶴は身震いした。まさにお雪たちが患っている症状そのものではないか。しかし、父の記述はさらに続いていた。
『心魂草の種子は、我が師である叔父より受け継いだものである。師は常々、この草の力が悪用されることを恐れておられた。故に、栽培法と調合法は口伝のみとし、文字に残すことを禁じられていた。しかし……』
そこで文章が途切れていた。千鶴は焦って次の頁をめくったが、残りの頁は全て白紙だった。まるで何者かに破り取られたかのように。
「父上……何を隠していらしたのですか」
千鶴の心に暗い不安が広がった。父には叔父がいたということも、今初めて知ったのだ。なぜそのことを一度も話してくれなかったのだろうか。
その時、店の入り口で鈴の音が鳴った。慌てて蔵から出ると、慎之助が立っていた。その顔は青ざめており、普段の落ち着きを失っていた。
「千鶴、大変なことになった」
「どうしたの、慎之助?」
「昨夜、また一人犠牲者が出た。今度は大工の職人だ。家族の話では、ここ数日鏡に向かって独り言を呟いていたという」
千鶴の手から古書が滑り落ちた。事態は彼女の想像以上に深刻化している。
「その人も、鏡月斎という医師に診てもらったことがあるの?」
「ああ。三日前に体調不良を訴えて、鏡月斎の元を訪れたらしい。そして薬を処方されて帰ってきた」
千鶴は床に落ちた古書を拾い上げながら言った。
「慎之助、心魂草という薬草を知っている?」
「心魂草? 聞いたことがないな」
「父の古書によると、人の心を操る力を持った禁断の薬草よ。適切に使えば薬になるけれど、間違えば毒になる」
慎之助の目が鋭くなった。
「それが犯人の使っている薬草だというのか?」
「可能性は高いわ。でも問題は、この薬草がどこで栽培されているかということ。父の記録では、種子の入手経路についても秘密にされている」
千鶴は古書の一節を慎之助に見せた。叔父という存在について書かれた部分である。
「父上には叔父がいたようなの。でも、その人がどこにいるのか、今も生きているのかも分からない」
「手がかりが少なすぎるな」慎之助は眉をひそめた。「だが、鏡月斎という男が心魂草を手に入れているのは確かだ。まずはその男の正体を暴くのが先決だろう」
千鶴は頷いたが、心の奥で妙な胸騒ぎを感じていた。昨夜から、時折視界の端に奇妙な影がちらつくのだ。まるで誰かが自分を見張っているような。
「千鶴? 顔色が悪いぞ」
「大丈夫よ。少し疲れているだけ」
しかし、千鶴の心配は的中していた。彼女が蔵で古書を読んでいる間、店の外では黒い着物を着た人影が、じっと中の様子を窺っていたのである。
「慎之助、私たちも気をつけた方がいいかもしれない」
「どういう意味だ?」
「もし鏡月斎が本当に心魂草を使って人を操っているなら、私たちが調査していることも知られているかもしれない」
慎之助の手が自然と腰の刀に触れた。
「それなら尚更、一刻も早く真相を突き止めなければならない」
千鶴は古書を大切に抱きしめた。父の遺した唯一の手がかりである。しかし、途切れた記述の続きには何が書かれていたのだろうか。そして、謎の叔父はどこにいるのか。
「まず鏡月斎の居所を探りましょう。茶屋や薬問屋を回って、この男について聞き込みをするの」
「分かった。俺も同心として、怪しい医者の情報を集めてみる」
二人が店を出ようとした時、千鶴は振り返って蔵を見つめた。まだ調べていない古書があるかもしれない。父の秘密を解く鍵が、どこかに隠されているような気がしてならなかった。
外に出ると、朝の喧騒に包まれた下町の街並みが広がっていた。しかし千鶴には、その日常の風景の裏に潜む暗い影が見えるような気がした。心魂草という禁断の薬草が、この平和な町を静かに蝕んでいく。
「千鶴」慎之助が急に足を止めた。「あの角の向こうに、黒い着物の男がいないか?」
千鶴が目を凝らすと、確かに人影が建物の陰に隠れるのが見えた。
「私たち、既に監視されているのね」
「恐らくな。だが、それは我々が正しい道を歩んでいる証拠でもある」
千鶴の心に、恐怖と同時に静かな決意が芽生えた。父から受け継いだ薬草師としての知識を、人々を救うために使わなければならない。たとえ危険が待ち受けていても。
心魂草の秘密を暴き、鏡月斎の正体を突き止める。そのためには、まず父の過去と、謎の叔父の存在について調べる必要があった。千鶴は古書を胸に抱きながら、慎之助と共に下町の迷路のような路地へと足を向けた。
しかし彼女はまだ知らない。心魂草の真の恐ろしさと、自分自身がその影響を受け始めていることを。そして、父が隠し続けた秘密の深さを。