三日目の朝は、雨の音で始まった。
楓は茶房「季ひと」の奥で目を覚まし、天井に響く雨粒の音に耳を澄ませた。昨夜は桜の下で出会った青年のことを考えながら眠りについたのだった。雨宮時雨——彼が名乗ったその名前は、今日の天気を予言していたかのようだった。
店の準備を整えながら、楓は中庭に目をやった。昨日あれほど美しく咲き誇っていた桜が、雨に打たれて何枚かの花びらを散らしている。それでもなお、薄紅色の花は凛とした美しさを保っていた。
午前中は雨足が強く、客足もまばらだった。楓は一人、カウンターで古い本を読みながら、時折中庭の様子を窺っていた。雨に濡れた石畳が光り、緑の苔がより鮮やかな色を見せている。
昼過ぎ、ちょうど雨が小降りになった頃、引き戸を開く音が響いた。楓が顔を上げると、昨日の青年——時雨が店の入り口に立っていた。
「こんにちは」
彼の声は雨音に溶け込むように静かで、楓は思わず本から手を離した。時雨は濡れた髪を軽く払いながら店内を見回し、カウンターの奥にある楓に視線を向けた。
「いらっしゃいませ」
楓は立ち上がりながら挨拶をした。不思議なことに、時雨の周りだけ空気が微妙に揺らいでいるように見える。雨に濡れているはずなのに、彼の服は乾いているようだった。
「お席はお好きなところにどうぞ」
時雨は軽く頷き、窓際の小さなテーブルに腰を下ろした。外の雨を眺められる特等席だった。楓は彼の後を追い、メニューを差し出そうとした時、奇妙なことに気がついた。
いつもなら、客の心の声が自然と聞こえてくる。今日訪れた年配の女性客は息子への心配を、午前中に来た学生は就職活動への不安を抱えていることが分かった。けれど時雨からは、何も聞こえてこない。まるで心に厚い霧がかかっているかのように、彼の内面は楓には読み取れなかった。
「何かお飲み物を」
「そうですね」時雨は少し考えるような素振りを見せた。「この雨に合うものを、お任せします」
楓は困惑した。普段なら客の好みや気分を読み取って、最適な飲み物を選ぶことができる。しかし時雨に対してはその能力が働かない。
「分かりました。少しお待ちください」
厨房に戻った楓は、しばらく茶葉の前で立ち止まった。どの茶を選べばいいのか分からない。こんな経験は初めてだった。迷いながらも、最終的に龍井茶を選んだ。雨の日の静寂に似た、穏やかで上品な味わいの緑茶だった。
お茶を淹れている間、楓は時雨の様子を盗み見た。彼は雨に煙る中庭をじっと見つめている。その横顔は昨日と同様に端正で、どこか憂いを含んでいた。
茶器を盆に載せて席に向かう途中、楓は足を止めた。店の奥の棚に置かれた古い音楽箱が、微かな音を立てていた。オルゴールの調べが、静かに店内に響いている。
「あの」楓は時雨に声をかけた。「申し訳ございません。音楽箱が勝手に……」
時雨は振り返り、音楽箱の方を見た。彼の視線がその方向に向くと、不思議なことに音楽が止まった。
「気にしないでください」時雨は穏やかに言った。「古いものは、時々昔を思い出したくなるのかもしれません」
楓は彼の前にお茶を置きながら、その言葉の意味を考えた。まるで彼がその音楽箱のことを知っているかのような口ぶりだった。
「このお店、長くやっていらっしゃるのですか」
時雨が湯飲みを手に取りながら尋ねた。楓は向かいの席に腰を下ろし、答えた。
「私が引き継いだのは最近なんです。前の店主は冬木さんという方で、私にお店を任せてくださいました」
「冬木さん」時雨は茶を一口飲み、何かを思い出すような表情を浮かべた。「存じ上げているかもしれません」
「ご存知なのですか」
「昔、この辺りをよく歩いていましたから」
時雨の答えは曖昧だったが、楓はそれ以上追及しなかった。代わりに、外の雨に目を向けた。
「雨がお好きなのですね」
「雨は……必要なものです」時雨は窓の向こうを見つめながら言った。「植物に恵みを与え、空気を清め、人の心を静める。でも時には、降りすぎることもある」
その時、不思議な現象が起こった。時雨の周りの空気が微妙に変化し、まるで季節がゆらいでいるかのように感じられた。窓の外では相変わらず雨が降っているのに、彼のいるテーブルの上だけ、春の暖かな空気が漂っているようだった。
楓は目を凝らしたが、それは錯覚なのか現実なのか判断がつかなかった。ただ、時雨という人物が普通ではないことだけは確かだった。
「桐島さん」時雨が突然楓の名前を呼んだ。「不思議に思われているでしょうね」
「え」
「私のことを。読めない、と思っていませんか」
楓は息を呑んだ。彼が自分の能力について知っているかのような言い方だった。
「あなたは、人の心を読むことがおできになる。でも私に対してはその力が働かない。困惑されているはずです」
「なぜ……それを」
「この茶房には、特別な力が宿っています」時雨は湯飲みを置き、楓を見つめた。「そしてあなたも、特別な存在です。でも私は、少し違う」
楓は言葉を失った。確かに時雨の言う通りだった。彼の心は読めない。それどころか、彼の存在自体が謎に満ちていた。
その時、再び音楽箱が鳴り始めた。今度は先ほどよりもはっきりとした音色で、古い賛美歌のような旋律を奏でている。
「あの音楽箱は」時雨が立ち上がり、棚の方へ向かった。「とても古いものですね」
楓も後を追った。音楽箱は確かに古く、蓋には細かな彫刻が施されている。冬木老人から受け継いだ時から店にあったが、これまで一度も動いたことはなかった。
「昨日から急に」楓は言った。「なぜ今になって」
時雨は音楽箱に手を伸ばしかけて、ふと止めた。
「時には、眠っていたものが目覚める時があります」彼は振り返り、楓に微笑みかけた。「きっと、何かを待っていたのでしょう」
音楽が止むと、店内は再び静寂に包まれた。外の雨音だけが、規則的に屋根を叩いている。
「私はそろそろ失礼します」時雨は席に戻り、茶代を置いた。「お茶、美味しかったです」
「また」楓は思わず声をかけた。「また来ていただけますか」
時雨は入り口で振り返った。その瞬間、楓には彼の瞳の奥に、深い悲しみのようなものが見えた気がした。
「ええ。また雨の日に」
彼が去った後、楓は一人店に残された。音楽箱は再び沈黙し、まるで何事もなかったかのように佇んでいる。
窓の外では雨が続いていた。楓は時雨が座っていた席に手を置いた。そこには微かな温もりが残っていたが、それは普通の人間の体温とは違う、不思議な暖かさだった。
夕方になって雨が止むと、楓は中庭に出た。桜の木の下には、昨日時雨と話した場所に、一枚だけ桜の花びらが残っていた。それは雨に打たれたはずなのに、なぜか完璧な形を保っていた。
楓はその花びらを手に取り、空を見上げた。雲の切れ間から夕日が差し込み、中庭を金色に染めている。
雨宮時雨——彼は一体何者なのだろう。そして、なぜ自分の能力が彼には通用しないのだろう。楓の心に、これまで感じたことのない好奇心と、微かな不安が芽生えていた。
音楽箱の謎も含めて、答えを知りたいと思った。次に彼が現れる時まで、楓はその疑問を胸に秘めて待つことにした。