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夜想曲と紡がれた亡霊

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深夜の旋律

月村 奏子 | 2026-03-20

時計の針が午前二時を指している。東京音楽大学第三練習棟の廊下に、桜井樹里の足音だけが響いていた。

 練習室のドアを開けると、ひんやりとした空気が頬を撫でていく。十月も半ばを過ぎ、日中は暖かくても夜はもう肌寒い。樹里は慣れた手つきで蛍光灯のスイッチを入れ、アップライトピアノの前に腰を下ろした。

 「今夜も付き合ってもらいます」

 独り言のように呟きながら、樹里は楽譜を開いた。ショパンのバラード第一番。来月の学内コンクールで演奏する予定の曲だった。昼間の練習では他の学生の音が気になって、どうしても集中できない。だから彼女は夜中にこうして一人で練習することを習慣にしていた。

 指が鍵盤に触れる。最初の和音が静寂を破って響く。樹里は目を閉じ、音楽の世界に没入していった。

 音楽大学に入学して一年半。幼い頃から続けてきたピアノだったが、周りの学生たちのレベルの高さに圧倒される日々だった。特に同期の中には、既にコンクールで入賞経験のある者や、海外で学んできた者もいる。樹里は地方の音楽教室で細々と学んできただけで、時として自分がここにいることに不安を感じることもあった。

 それでも、音楽への愛だけは誰にも負けない。そう信じて、彼女は今夜も鍵盤に向かっていた。

 一時間ほど経った頃だろうか。樹里は手を止め、肩を回した。集中しすぎて体が強張っている。水分補給のために持参したペットボトルに手を伸ばそうとした時、それは聞こえてきた。

 美しいピアノの音色だった。

 樹里は息を呑んだ。その演奏は技術的に完璧なだけではない。音の一つ一つに魂が込められていて、まるで演奏者の心の奥底を覗いているような感覚に陥る。こんな時間に、誰が弾いているのだろう。

 音は上の階から聞こえてくるようだった。樹里は椅子から立ち上がり、そっとドアに近づいた。廊下に出ると、確かに四階の方から音楽が降りてくる。

 「誰かいるのかしら」

 好奇心が抑えきれず、樹里は階段を上った。四階は普段あまり使われていない練習室が並んでいる。古い建物で、戦前から続くこの音楽大学の歴史を感じさせる重厚な造りだった。

 音はより鮮明になった。演奏されているのは聞いたことのない曲だった。クラシックの様式を踏襲しながらも、どこか現代的な響きも含んでいる。そして何より、その表現力の豊かさに樹里は心を奪われた。

 音の主は414号室にいるようだった。樹里は足音を立てないよう注意しながら、その部屋の前まで来た。ドアに耳を当てると、演奏の迫力に体が震えた。

 こんな人が同じ学校にいるなんて。樹里は純粋に感動していた。これほどの演奏ができる人なら、きっとコンクールでも上位入賞は間違いない。もしかしたら既にプロとして活動している研究生かもしれない。

 演奏が一段落したようで、音が止んだ。樹里は勇気を出してドアをノックした。

 「すみません、下で練習していた者です。とても素晴らしい演奏でした」

 返事はなかった。

 もう一度ノックしてみる。やはり無反応だった。もしかすると、演奏に集中しすぎて気づかないのかもしれない。樹里は恐る恐るドアノブに手をかけた。鍵はかかっていない。

 「失礼します」

 小声で断りを入れながら、樹里はドアを開けた。

 室内は真っ暗だった。

 樹里は困惑した。電気も点けずに、あれほどの演奏ができるものだろうか。手探りで壁のスイッチを見つけ、明かりを点ける。

 部屋には誰もいなかった。

 グランドピアノが一台、いつものように部屋の中央に置かれているだけだった。楽譜立てには何も置かれていない。ピアノの蓋は閉じられ、椅子もきちんと中に入れられている。とても今まで誰かが弾いていたとは思えない状態だった。

 樹里は部屋の中を見回した。隠れる場所はないし、窓も閉まっている。確かにここから音が聞こえていたはずなのに。

 「気のせいだったのかしら」

 そう呟きながらも、樹里の心には違和感が残った。あの演奏の鮮明さは、決して幻聴や錯覚ではなかった。技術的な完璧さだけでなく、演奏者の情熱や苦悩、そして音楽への愛が伝わってくる、魂のこもった演奏だった。

 樹里がピアノに近づいた時、微かに香りが漂った。古い紙の匂いと、かすかに香水のような甘い匂いが混じっている。この部屋特有の匂いなのか、それとも誰かがつい先ほどまでここにいた証拠なのか。

 ピアノの蓋に手を置くと、表面がほんのり温かかった。やはり誰かが弾いていたのだ。しかし、一体どこに消えたというのだろう。

 樹里は鍵盤の蓋を開けてみた。白と黒の鍵盤が整然と並んでいる。何の変哲もないグランドピアノだった。試しに一つの鍵を押してみる。美しい音色が響いたが、先ほど聞いた演奏ほどの魅力はない。

 時計を見ると、もう三時を回っていた。樹里は首を振り、部屋を出ることにした。きっと音の錯覚か、あるいは隣の部屋から聞こえていたのを勘違いしたのだろう。

 電気を消し、ドアを閉めようとした時、再び音楽が始まった。

 樹里の手が凍りついた。今度は414号室からではない。もっと奥の部屋、417号室辺りから聞こえてくる。しかも今度はピアノではなく、バイオリンの音色だった。

 これも息を呑むほど美しい演奏だった。技巧的な部分では先ほどのピアノには及ばないかもしれないが、その分、より感情的で切ない響きがある。まるで演奏者の人生そのものを表現しているような、深い悲しみと希望が交錯する音楽だった。

 樹里の足は自然に音の方向に向かった。417号室の前に立つと、中から微かに明かりが漏れている。今度こそ演奏者に会えるかもしれない。

 ドアに手をかけた瞬間、演奏が止んだ。そして建物全体が深い静寂に包まれた。樹里の心臓の鼓動だけが妙に大きく聞こえる。

 恐る恐るドアを開くと、やはり部屋は空っぽだった。しかし今度は楽譜が一枚、譜面台に置かれていた。手書きの楽譜で、インクが褪せて古いもののようだった。

 樹里は楽譜を手に取った。タイトルは読めないが、確かにバイオリンのための楽曲のようだった。そして楽譜の下には、小さな文字で何かが書かれている。

 「静香」

 人の名前だろうか。樹里は楽譜をそっと譜面台に戻した。これは誰かの大切な楽譜に違いない。勝手に触れるべきではないだろう。

 部屋を出ようとした時、廊下の向こうから足音が聞こえてきた。樹里は緊張した。管理員の見回りかもしれない。学生が深夜にこんな場所にいることを知られたら、問題になるかもしれない。

 しかし足音は次第に遠ざかっていき、やがて聞こえなくなった。樹里はほっと息をついた。

 時計は午前四時近くを指していた。そろそろ戻った方がいいだろう。樹里は急いで三階の自分の練習室に戻り、荷物をまとめた。

 建物を出る時、樹里は振り返って四階を見上げた。窓は全て暗く、何事もなかったかのように静まり返っている。本当に今夜の出来事は現実だったのだろうか。

 帰り道、樹里の心は今夜聞いた二つの演奏のことでいっぱいだった。あれほどまでに魂のこもった音楽を、彼女は今まで聞いたことがなかった。それは技術を超えた何か、音楽の本質的な美しさを体現していた。

 自分もいつか、あんな演奏ができるようになるだろうか。樹里は夜空を見上げながら、心に新たな憧憬の火が灯るのを感じていた。

 そして彼女はまだ知らない。今夜の出会いが、自分の音楽人生を根底から変える始まりだったということを。

第1話 深夜の旋律 - 夜想曲と紡がれた亡霊 | 福神漬出版